石上神宮の神剣について

1.まえがき
 奈良県天理市に鎮座する石上神宮は『延喜式』神名帳に石上座布都御魂神社と記されており、これは神武東征の際に高倉下によって献上された布都御魂剣に宿る布都御魂大神を祭神としていたが、、いつの時かは不明ながら物部氏の先祖とされる饒速日が天上から降臨する際に携行した天璽十種瑞宝(この中に八握剣がある)に宿る布留御魂大神を加えて二座が祀られるようになったようです。


 さらに素盞嗚が出雲国簸ノ川上で八岐大蛇を切った天十握剣が吉備国に安置されていたものを石上神宮に遷し、この剣に宿る布都斯魂大神を加えて三座を祀ることになったとされます。
 ここではこれらの神剣が祀られた背景などについて検討したいと思います。

2.石上神宮と物部氏の祭祀の開始時期
 石上神宮は王権の武神を祀る神社であり、その祭祀を職掌として物部氏が担当したとするのが大方の見方です。
 また、石上神宮は王権の武器庫の役割も有していたとされます。
 それが『延喜式』の石上座布都御魂神社の時代には武神の性格は残すものの、布留朝臣の氏神へと変貌し、明治時代になってから石上神宮の名が復活しています。

 石上神宮の奥には元宮ではないかとされる石上神社があり、また『日本書紀』神武即位前期の大和平定時に和珥の坂下の居勢祝を成敗したとの記事があるので、この地は古くからの信仰の場所だと思われますが、ウジ・カバネの制が成立するのが5世紀後半以降であり、部の制が成立するのが6世紀初期以降と考えられているので、物部連の氏姓の成立は6世紀初頭と考えられ、それ以降物部氏が祭祀を担当していたものと思われます。
 また、武神の祭祀はまず宮中で行われ、後に石上神宮に移されたものと思われ、『日本書紀』継体天皇元年(507年)2月10日条に「どうか手白香皇女を召して皇后とし、神祇伯らを遣わして、天神地祇(天つ神と国つ神)をお祀りし、天皇の御子が得られるようお祈りして、人民の望みに答えて下さいと奏請した。天皇はよろしいと言われた。」とあり、また3月1日条に「詔して、天の神、地の神を祀るには、神主がなくてはならず、天下を治めるには君主がなくてはならない。」とあることから、この文章は『芸文類従』からの引用文のため天皇の意向そのものではありませんが、この時まで王権公認の神主が存在しなかったとすれば、上記の物部氏の祭祀の開始時期は妥当なものと言えるでしょう。

3.布都御魂剣の登場年代
 布都御魂が次第に人格神として整えられ、高天原の神として経津主神の神名が成立したとされますので、布都=経津であり、『日本書紀』神代下第九段の本文では、経津主神は国譲り神話において天照大御神の命を受け、建甕槌(タケミカヅチ)神と共に大己貴神の元へ赴き、葦原中国の国譲りを成功させた場面に登場しますが、武神とはかけ離れた設定です。
 また、『日本書紀』神武天皇即位前期では建甕雷神が持っていた韴霊(ふつのみたま)という剣を高倉下を介して神武に渡したとされますが、武神としては何ともインパクトに欠ける設定です。
 しかし、神代下第九段の第二の一書には、経津主神は岐神を先導役として方々を巡り歩き平定し、従わない者は斬り殺し、帰順する者には褒美を与えた。この時に帰順した首長は大物主神と事代主神であるとしており、これは武神に相応しい内容です。
 直木孝次郎氏は著書の『大和王権と河内王権』(吉川弘文館、2009年)において、この第二の一書の大物主神は初期大和政権の本拠地にあり、事代主神は葛城地方から高市郡にかけて信仰されていた神なので、この内容は葛城の勢力と初期大和政権の勢力が河内政権に屈服したことを意味すると考えてよいのではないかとしています。
 そうであれば、経津主神は武神としてあがめられるのは当然であり、石上神宮に布都御魂大神が祀られているのは納得できます。
 また、岡田精司氏は著書の『古代王権の祭祀と神話』(塙書房、1970年)において、神武の大和平定伝承は、5世紀代に河内政権が大和に侵入して、4世紀以来の初期大和政権を打倒した争乱の記憶にもとづくものとしています。
 しかしながら、現在では王朝の交代ではなく王権の拡大、あるいは本拠地の機能的な一時的移動とする見方が優勢であり、河内政権の存在には否定的な意見が多いものの、大和政権の主体が一時的に河内に移り、移った連中が大和に戻って来た時の伝承とみなしても結論は変わらないでしょう。
 従って、布都御魂剣の登場年代は当初5世紀だったものが、後に神武即位前期にまで遡らせたものではないかと考えます。
 この布都御魂剣は明治7年に石上神宮の禁足地で出土した長さが2尺8寸6分(86cm)の内反素環頭大刀が該当するとされます。

4.八握剣の実物はどこにあったのか
 物部氏の祖である饒速日が天上から降臨する際に携行し布留御魂大神とされる八握剣は十種の神宝の一つで、邪悪を罰して平らげると言われ、8つの柄があるとても奇妙な形をしている図が流布しています。
 石上神宮にそのような剣の実物が紹介された形跡がないのですが、柄の部分が欠落してしまったとすれば、明治時代に石上神宮の禁足地で出土した長さが2尺6寸1分(79㎝)の両刃直刀が八握剣の可能性があります。

5.天十握剣の流転の背景を探る
 八岐大蛇を斬った天十握剣については『日本書紀』神代上第三の一書に、素盞嗚尊が蛇を斬った剣はいま吉備の神部のところにあると記されています。
 これに対して『石上振神宮略抄』では、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った十握剣(天羽々斬剣、蛇麁正、布都斯魂神)を吉備神部のもとに祀っていたが、仁徳56年に市川臣が勅を奉じて石上振神宮の高庭の地に遷したと伝えています。
 『新撰姓氏録』の大和国皇別の布留宿祢の項によれば、「柿本朝臣同祖。天足彦国押人命七世孫米餅搗大使主命之後也。男木叓命。男市川臣。大鷦鷯天皇御世。達レ倭賀二布都(努)斯神社於石上御布瑠村高庭之地一。以二市川臣一為二神主一。四世孫額田臣。武蔵臣。斉明天皇御世。宗我蝦夷大臣。号二武蔵臣物部首幷神主首一。」とあり、市川臣が布都斯神社を高庭に遷したのは確認できますが、蘇我蝦夷によって市川臣の4世の孫である武蔵臣を物部首ならびに神主首にされたとなっていることから、1代を20年の開きとして市川臣は蘇我蝦夷より4代、80年前の年代になります。
 従って、市川臣は仁徳朝ではなくて6世紀中頃の人物と推定されますが、『日本書紀』が言う十握剣が今は吉備に返されたと読める内容が割愛されているのは名誉なことではないと考えたからでしょうか。
 『日本書紀』天武3年8月条に石上神社に納められている諸家の宝物は皆その子孫に返せとの指示が出されているので、吉備の神部に返却されたとするのが妥当でしょうが、レプリカは石上神宮が保持していたのかもしれません。
 神部とは神官に関わる部制であり、中央で統括していたのは物部氏ではないかと思われますので、地方の大きな神社に属する神官が影響下にあったものとみられますが、この場合は吉備津神社だったのでしょう。
 それではなぜ吉備津神社に八岐大蛇を斬った十握剣があったのかですが、『日本書紀』仁徳67年条に吉備の中国の川島河(備中の高梁川と想定される)の川股に竜がいて人を苦しめたので、笠臣の先祖の県主が竜を斬ったという伝承を載せているので、そのような次第であればその剣を王権に提出せよとの命令が下り、石上神宮に奉納したのではないでしょうか。
 そして提出された剣を吟味した結果、出雲神話としての八岐大蛇伝説が完成したとの解釈が成り立つのかもしれません。
 この天十握剣は明治11年に石上神宮の禁足地で出土した長さが4尺1寸6分(126cm)の片刃直刀の可能性があります。
 なお、『石上神宮旧記』によれば布都斯魂神は八岐大蛇を斬った十握剣の神気の御名で、神代より吉備神部にあり、これは今の備前国石上の地にありとなっていますので、現在の岡山県赤磐市に鎮座する石上布都魂神社が該当するのでしょうが、これは誤伝の可能性があります。
すなわち、この神社が所蔵する木製の素環頭大刀の模造刀は形状や長さからして天十握剣ではなくて神社名に対応した布都御魂剣だと思われるからです。

6.おわりに
 神武即位前期を含めた神話に関連した布都御魂剣や天十握剣は神剣として為政者の権威の象徴です。
 神剣に仕立て上げられた実物の剣は、神話の信ぴょう性を高めるべく慎重に選ばれたと思われますが、今回の神剣関連では『日本書紀』の異伝とされた「一書」には、挿入箇所の時代とは異なるものの、ある程度の歴史的背景を含んだものだったのではないでしょうか。
 特に出雲の八岐大蛇神話は備中の伝承が原形になったと考えてもあながち間違いではないのかもしれません。

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