1. はじめに
三河の田原藩主であった三宅氏は『寛永諸家系図伝』では藤原氏支流に収め、「家伝にいはく、先祖は備前の児島より出、藤五太郎、藤五次郎、藤五三郎兄弟三人なり、今にいたりて九百年にをよぶ、藤五三郎三州賀茂の郡廣瀬の城に居住す、隼人正は其苗裔なり、と云々」とあります。この藤五〇〇の藤の字により無理やり藤原氏流に分類されたようにも思えます。
その後の『寛政重修諸家譜』では「藤原氏を転じて三宅氏にあらたむべしといえども、備後三郎高徳は佐々木の庶流という説もあれば、今の家説源氏なりといふもいはれなきにあらず。すべて其姓をいうもの粉紜たるにより、寛永の譜にしたがひてあらためず。諸説を挙て後勘に備ふるのみ。」と締めくくっていますので、出自についてはお手上げといったところですが、出身地の備前・児島説は変えていないようです。
そこで本稿では備前・児島出身説の真偽を探っていこうと思います。
2. 三河・御船城主の三宅氏
『愛知県埋蔵文化財センター調査報告書』第113集の「御船城跡」によれば、御船城跡は愛知県豊田市御船町字島田に所在する中世城館を含む遺跡であり、建長年間(1249 ~ 55)より参河国高橋庄を経営した中条氏の被官衆の中から15世紀中葉にかけて台頭してきたのが鈴木氏・三宅氏・那須氏であり、三宅氏は初めに伊保、そして東広瀬を本拠として御船、梅坪方面へ広がりをみせたとあります。
そして『猿投町誌』、「猿投村史」、『豊田市史』を引用した御船城に関連する記述としては、「1470(文明二)年応仁の戦いで功のあった児島右京亮義明なる人物が御船、亀首、加納を領有し御船に館を構えた、とするのが始まりである。この児島氏を三宅氏の祖とする伝承があるが、この間の系譜については錯綜しており正確なものは判然としない。
1492(明応二)年に完成した猿投神社拝殿の棟札には「大施主三宅筑前守家次、作事奉行名備後守家吉、松嶋入道、大工右衛門大夫次清」と記されており、この頃の三宅氏の隆盛がうかがわれる。三宅氏の惣領家居城としての広瀬城、南進の拠点梅坪城に関連する記述と比較すると、御船城に関するものは乏しく、その後は1564(永禄七)年秋、尾張・三河の戦乱の中、賊のために城郭が焼失し、城主三宅義高、その子義国ら市場村(保見町)で討死、義高の三男児島鎌太郎義光(七才)は僧となり千鳥寺第五世全鈯となる、とある。一方で、1586(天正一四)年西広瀬村八剣氏神の棟札に「信心大施主御船三宅亀千代殿云々」とある資料が存在し、少なくともこの時期まで三宅氏の居城があった可能性も否定できない。」とあります。
一方、『姓氏家系大辞典』には三河の児島氏として、「賀茂郡猿投社の神官に児島壱岐あり(集説)。」となっていますので、この三宅氏は三河に児島氏の家臣としてやってきて、後に主君と交代して領主の地位についた可能性が考えられます。
3.播磨の児島氏
『姓氏家系大辞典』には播磨の児島氏として姫路鍵町紅粉屋の伝説からの引用
で、「天日槍四世孫田道間守の裔にして、其の後裔・応神天皇の外祖として頗る権勢あり。仁徳天皇の時、但馬以西隠岐に至る五国の国造・罪ありて播磨伊和部里にて耕さしめ罪を贖ふ。其の時三宅(御宅也。正倉、屯倉と同義也)に稲を蔵め、飾磨三宅と称し、田道間守の裔を三宅連に任じ、其の地に移る。後の三宅氏」なりと言ひ、又「三宅朝臣光平(永承二年播磨少掾に任ぜらる)其の後裔武範(平氏隆昌のため職禄を失ひ、備前児島に行き、児島氏を称す)-重範(実は佐々木盛綱の孫、佐々木盛則の子なり)-範守(従五位下、備前守、元寇の役に功あり)-範勝-範長(延元元年印南郡にて戦死)-高徳(勤王の士、晩年郷里にて没す。其碑石・飾磨郡三宅にあり。)-高光、その八世の後裔貞元(従五位下、土佐守、宇喜多秀家に仕ふ)-恕庵(医者、本多政明に仕ふ)」とあります。
この伝説の出所である紅粉屋とは姫路城下で藩御用達をしていた家であり、児島姓を名乗り町方六人衆の一人でもあり、苗字帯刀を許されるほどの富豪だったようです。
ところで『播磨国風土記』餝磨(しかま)郡の条の末尾に「餝磨の屯倉」がみえ、同書によると、仁徳天皇の世に意伎(おき)・出雲・伯耆・因幡・但馬の国造が召喚された際、お召しの使いを水手として京に向かったため罪を得たが、播磨国へ退去して贖罪のために水田を造成し、そこで作った稲を収納する御宅を飾磨の御宅と名付けたという話があり、この内容を改変したものが上記の児島氏の伝説になったようですが、児島氏の出自については備前国邑久郡の今木重範が鎌倉幕府から備前児島の地頭職に任命され、その後裔が児島氏を称したのではないかともされていますが、残念ながら確かなことは分かっていません。
4. 古代の備前の三宅氏、難波氏
『日本書紀』敏達12年条に百済から肥後・葦北国造の子・達率日羅らが吉備
児島屯倉に着いたという記事を載せており、この児島屯倉を経営・管理していたのが吉備地方の諸国造家である上道・下道・笠等の諸氏で、後にその一族が職名を氏としたのではないかとするのが『姓氏家系大辞典』の見立てですが、最近の研究では大伯国造には吉備海部直、上道国造には上道臣、三野国造には三野臣、下道国造には下道臣、賀陽国造には香屋臣、笠臣国造には笠臣が、吉備穴国造は阿那臣、品治国造は品治君が任じられたのであろうとされており、これらの直、臣、君の各氏族から三宅氏が分氏したとの文献は残念ながら見当たりません。
唯一、備前国児島郡関連の平城宮跡出土木簡に「備前国児嶋郡賀茂郷三家連乙公」とありますので、三家=三宅ですから連のカバネの氏族の本拠地は大和と河内の両方に分布していることが多いとされますので、『新撰姓氏録』の右京諸蕃と摂津国諸蕃に「新羅国王子天日桙命之後也」とする三宅連が掲載されていることから、この三家連乙公は中央から派遣されてきた人物とみられますので、備前の三宅氏は三宅連の後裔の可能性があります。
一方、国会図書館が所蔵する『諸系譜』第11冊には難波田使首系図があり、
『日本書紀』欽明17年条の記述を参照して児島屯倉の田令となった葛城山田直瑞子を田使首の祖としています。そして瑞子の孫の息海を児島評造とし、その後裔の諸主が備前国津高郡駅家郷難波に住み、難波氏の先祖となっています。
日本で最初に難波を称した氏は摂津の渡来系氏族である難波吉士氏ではないか
と思われ、この難波田使首系図をどの程度信用してよいものかは分かりませんが、中央から児島屯倉の税管理者として難波氏が下向してきた可能性が考えられますので、三宅氏の場合も同様なケースが想定されます。
5. 中世の備中、備前の三宅氏
中世の備中、備前において守護などの家臣として活躍した三宅氏は見当たりませんが、『倉敷市史』第九冊、P918(国会図書館の個人送信サービスでも閲覧可能)に本国が備前児島の浅口郡江長村三宅家の系図が紹介されています。
この系図で備後三郎高徳は児島高徳のことでしょうから、双子の高徳と高秀は二人共に児島氏の養子になった人物ということでしょう。
ここで重要なのは、高徳の箇所に「南朝の忠臣、後醍醐天皇に供奉」などの記載がない素朴な真実味のある記述であり、双子の兄である高秀が串田鼻高山の城主になったことの方が系図の作者にとっては重要事項だったのでしょう。
さて、本系図の注意点として「乗」はノリと読むので「範」などという⽂字と誤記されてきた可能性も考えられますので、乗家(範家)、乗秀(範秀)、乗綱(範綱)だとすれば、播磨の児島氏の系図には武範、重範、範守、範勝、範長と出てきますので、両家は密接な主従の関係にあったのかもしれません。
7代乗国が「西児島津良へ分家」、8代光秀が「従是子孫連島之住人」とあり、連島は古くは周囲が海で備前国児島郡に属し、『和名類聚抄』の都羅郷に比定されますので、西児島津良とは児島郡の西部にある都羅郷のことであろうと考えます。
また、6代の行光は藤五郎を名乗り、その子は藤一郎、藤次郎、藤三郎を名乗っていますので、親の藤五に輩行名の太郎(一郎)、次郎(二郎)、三郎を加えた名乗りも想定されますので、『寛永諸家系図伝』の三河三宅氏系図にある藤五太郎、藤五次郎、藤五三郎と一致することになります。
従って、三河三宅氏は備前児島から連島に分家した三宅藤三郎乗国の後裔ということになります。
なお、永正13年(1516年)に備中・連島から船団14艘で薩摩に出掛け
てた時に坊津で敗死した三宅和泉守国秀については、『摂津志』には、
「蜂前寺、味舌上邑にあり、号して金剛院という。不動の絵像あり、書
して曰く、永正元年八月、飛弾守三宅国英修補す」とあり、また、「蓮
華寺、西沢良宜村にあり。涅槃像あり、書して曰く、天文五年四月、出
羽守三宅国村・遠江守永清修補す」とも記していますし、国村・永清は、
国英を父とする兄弟であったという地元の伝承もありますので、三宅和
泉守国秀は摂津の三宅城主であった三宅飛弾守国英と同一人物とみられ
ます。
この三宅国秀は堺の商人と連携して活躍していたとされますので、摂津出身の国秀は堺にも何らかの縁があったものと思われ、同族の連島・三宅氏を糾合して薩摩に向かったのではないかと思われます。
また、「THE TO-KEN SOCIETY OF GREAT BRITAIN」というイギリスのHPの「重要刀剣等図譜」によれば、「備前国住長船次郎左衛門尉藤原勝光作 / 同三左衛門尉祐定 / 為宇喜多和泉守三宅朝臣能家作之 / 永正十八年二月吉日」や、同じく「刀剣美術」によれば、「備前国住人藤原朝臣長船勝光貞光両作 / 三宅朝臣国家住代是也 / 明応八己未年八月吉日」が見られ、これらの三宅朝臣を名乗る氏は連島・三宅氏ではなくて摂津出身の三宅氏であろうか。
6. 美濃の明智氏、三宅氏との関係
江長・三宅氏略系図にある左馬之助、藤〇〇、光秀、光春の名乗りは見逃すことが出来ません。
情報交換をしたわけでもないのに、美濃の明智関連の系図に出てくる明智左馬
之助光春、明智光秀、三宅左馬助、三宅藤〇〇との一致点は同族の証かもしれません。
東美濃・明知城主の遠山景行の妻が三河広瀬城主の三宅高貞の娘であったことからも、三河三宅氏の一部が遠山氏の家臣になったことは容易に想像されます。
岐阜県恵那市明智町にある日本大正村には、江戸時代初頭に旗本の明知遠山氏
に仕えていた三宅氏の旧宅が移築展示されていることからも両者が主従関係にあったことは明白です。
また、明智光秀の出生地については諸説があり結論は出ていませんが、光秀が美濃守護土岐氏の支流である明智家の出身ではなくてこの明知遠山・三宅氏の出であったとするならば、光秀家臣の三宅氏との関係も容易に理解できるような気がします。
なお、東大史料編纂所が所蔵する「明智氏一族宮城家相伝系図書」には、明智頼秋・頼秀兄弟の弟に三宅越後守国朝をあげ、国朝は羽栗郡三宅(現岐阜県羽島郡岐南町三宅)に住んでいたとされますが、この系図自体が伝聞情報を集成したものであり、あまり信用が置けないのではないかと考えています。
すなわち、当時の木曽川の流域は現在よりも北にあり、岐南町三宅は尾張国に属していますので土岐支流三宅氏の名字の地とするには時代的にも不審ですし、当地に三宅氏が住んでいたとの伝承も皆無です。
【追記:2024年8月11日】
1.本文では美濃明智関連の氏と江長・三宅氏の名乗りの共通点を指摘したわけですが、明智光秀の子供と三河三宅氏、江長・三宅氏の共通点としては、光秀:長男十五郎光慶、次男十次郎光泰、三河三宅氏は『寛政重修諸家譜』では十三郎を名乗る者が3名(正継、長清、長温)、江長・三宅氏略系図では十三郎家秀の名乗りがあげられ、十〇郎の名乗りが注目されます。
また、『豊田市史』人物編に所収の三宅氏系図(四)には力石町三宅旧記留書からの引用で三宅高貞の弟に左馬之助高忠がみえ、左馬之助の名乗りも3者共通です。
2. さらに、『豊田市史』人物編に所収の三宅氏系図集成(六)には広瀬城主三宅摂津守高清は「朝倉義景ノ甥」と記されているので、明智光秀が越前に居た時に本家の三河三宅氏のために口利きをしてこの縁談が成立した可能性も否定出来ません。
3.『武功雑記』では、明智光秀は三河の牛久保城主・牧野右近大夫に仕えていたともいわれており、また妻は妻木氏の出身ですから、初期段階の光秀は東美濃や三河と縁が深かったことは事実ではないでしょうか。