邪馬台国への1万2千里再考

1.はじめに
 以前から筆者は、帯方郡から邪馬台国までの距離一万二千里を実数とみなして現在の地図から里数のみで場所を特定しようとするのはナンセンスであるとしていたのですが、今回は話を一歩前に進めて、『三國志研究』第六号(三國志学会、2011年)に所収の「『三国志』東夷伝倭人の条に現れた世界観と国際関係」渡邉義浩著に邪馬台国関連の有益な情報がありましたので、これを参考にしつつ帯方郡から邪馬台国までの1万2千里の持つ意味を再考するとともに、邪馬台国が「会稽・東冶の東に在るべし」という記述との整合性などに重点を置いて検討します。

 2. 渡邉義浩氏の論考概要
 今回の検討に関連する個所をピックアップすれば、概略は次のとおりです。
 (1)「親魏○○王」という称号の形は「親魏大月氏王」と「親魏倭王」のみに  
   限定される。
 (2)邪馬台国と同等の称号を持つ大月氏国は、『後漢書』列伝によれば洛陽
   から一万六千三百七十里の彼方にある。朝貢する夷狄が遠方であればあ
   るほど、それを招いた執政者の徳は高い。陳寿が邪馬台国を招いた執政者
   の徳を大月氏国のそれと同等以上にするためには、邪馬台国は洛陽から一
   万七千里の彼方
にある必要が生まれる。
 (3)洛陽から帯方郡までが五千里であるから、邪馬台国は帯方郡から一万二
   千余里の彼方なのである。
これが、帯方郡から邪馬台国までの距離を一万 
   二千余里としている理由である。
 (4)倭国が孫呉の背後にあたる中国の東南にあるべきだと陳寿も考えてい 
   ることは、「当に会稽・東冶の東に在るべし」という書き方にも明らか

   ある。
 (5)このように、「倭人の条」の距離と方位は、陳寿の理念に基づいて定めら
   れている。距離は大月氏国より少し遠く、方位は呉の背後となるように
   設定されているのである。それは、『三国志』の中で、ともに「親魏○王」
   となる「親魏大月氏王」と「親魏倭王」とをそれぞれ蜀漢と孫呉の背後の
   大国として対照的に表現するためであった。倭国は、大月氏国と並立すべ
   き東の大国でなければならない
のである。
 (6)引き算をすると不弥国から邪馬台国までが千三百里になってしまうが、
   基づいた史料が異なるのではなく、当時存在した記録に基づきながらも、
   距離の辻褄を合わせるために、最後の二国の距離をぼかして記述した、
   と考える方が真実に近い。
 (7)南海島は『漢書』地理志の粤地に属するが、その習俗の一部は「倭人の
   条」と共通しているので、倭人の習俗を南方系につくりあげた蓋然性は
   高い。
 (8)邪馬台国論争が繰り広げられた方角・距離の比定は、陳寿の理念に覆わ
   れている。「倭人の条」に記される邪馬台国は、九州でも畿内でもなく、
   会稽郡東冶(福建省福州市)の東方海上に位置する

 それでは、『後漢書』志に洛陽から南海郡治(広東省広州市)までの距離が
南7,100里と記述されていますので、『魏志』倭人伝の里程情報から邪馬台国
が洛陽の南何里の距離にあるのかを算出しますと、結果は5,189里です。
 『後漢書』志には洛陽から東冶県までの距離が記載されていませんので、当  
時の中国大陸内の距離感が比較的正確だと仮定して、現代の地図で上記7,100
里を基準としてその距離を求めると約5,000里となり、両者の緯度はほぼ同
じになりますので、『後漢書』のいう「会稽・東冶の東にあり」と一致し、邪
馬台国は東冶県の東方の海上にあることになります。

 また、『後漢書』には『魏志』にない「朱崖・儋耳と相近し。」の記述が目を
引きますが、南海郡治の南に朱崖・儋耳(海南島)があり、その南に日南郡治 
がありますので、『後漢書』志の洛陽から日南郡治までの距離は南13,400里で
すから、朱崖・儋耳は洛陽の南7,100里から13,400里の間にあることになり
ます。
 この距離では呉の首都の背後から大きく外れてしまいますので、『魏志』で
はこの記述は除外されたのでしょう。
 なお、『魏志』倭人伝に会稽・東治との表記がありますが、文庫本でも東冶
に修正されており、会稽郡に東治県は存在しません。
 また、『後漢書』の「朱崖・儋耳と相近し。」の記述から考えても、通説通り
『魏志』のいう東治県は後漢時代の東冶県の誤写であり、現在の福州市とする
渡邉氏の見解は妥当です。
 
 なお、『魏志』や『後漢書』が参考にしたと思われる後漢の王充の著書『論
衡』には、「周の時代、天下太平。越裳は白い雉を献じ、倭人は鬯草(ちょう
そう)を貢いだ。」とあり、また、「白雉は越に於て貢がれ、暢草は宛に於て献
じられる。」との記述があります。
 この記述は紀元前1,000年頃の周の成王の時代の話なので日本列島の倭人や
ベトナムの越裳が周王朝に認識されていたはずもありませんが、後に現在の
ベトナム北部にあった日南郡の場所に越裳国があり、宛とは交阯郡の東隣にあ
った鬱林郡(広西チワン族自治区中央部)のことですので、このことから、
倭人は朱崖・儋耳を含む越(今のベトナム北部)方面の人々であるとの認識で
『後漢書』が書かれたのかもしれませんが、『魏志』がいう会稽・東治の東の
12,000里が正しいものとすれば、特に末盧国までの里数を過大に見積もった
結果であり、それを見直せば海南島付近であろうと『後漢書』の著者が考えて
いた可能性もあります。

検索サービスのコトバンクの「漢」の項の地図に加筆

4. まとめ
(1)一部の論者は、 現在の日本の地図を基にして帯方郡から12,000里
  離れた邪馬台国の場所を求めようと、短里や行程の放射状の読みを
  採用してきた訳ですが、そもそも12,000里の距離がどうして出てき
  たのか
の議論が抜け落ちていました。
   それを明確にしたのが今回の渡邉義浩氏の論考だったのですが、
  もう1つ抜け落ちていた「会稽・東冶の東」との整合性もこの論考
  で明らかとなり、計算上も確認できたことは有意義であったと思い
  ます。
(2)一部の行程で里数が把握されていないのに総距離12,000里が出
  てくるのは、渡邉氏が指摘したとおり「親魏大月氏王」と「親魏倭
  王」とをそれぞれ蜀漢と孫呉の背後の大国として対照的に表現する
  ために設定したものであり、現実の日本列島の方位とも合わないの
  は当然
です。
   倭国を遠方の大国に仕立て上げたとする説の初見は『倭国』(岡田
  英弘著、1977年、中公新書)です。
(3)『後漢書』では『論衡』の記述を誤解したか、または『魏志』の
  特に末盧国までの過大な里数に疑問を持った結果、邪馬台国は「朱
  崖・儋耳と相近し。」と追記した可能性があります。  
(4)『魏志』倭人伝の帯方郡から邪馬台国までの距離12,000里は、邪
  馬台国の場所が会稽郡東冶県の東方の海上に対応したものであった
  が、不弥国から投馬国まで船で20日、投馬国から邪馬台国まで船で
  10日、陸行1月としているのは、実際に帯方郡使が何往復かしている
  わけなので、往来実績の概略日数を示したものとするのが妥当では
  ないでしょうか。
   そうだとすれば、玄界灘周辺にあった不弥国(福津市付近か)か
  ら邪馬台国までは相当な距離があったはずであり、九州からはみ出
  す可能性は十分にありますし、仮に九州内におさまったとした場合
  には、伊都国や奴国を束ねるような女王国が辺境の地に存在してい
  たことになり、考古学上からも信じ難い結果となります。
(5)従って、『魏志』のみに依拠した邪馬台国論争は無意味であり、
  文庫本の『隋書』倭国伝に、「邪靡(摩)堆に都す。則ち『魏志』
  に謂う所の邪馬台なる者也。
」との記述がありますので、これは7世
  紀の倭国の都の邪摩堆=大和に邪馬台(やまと)国
があったとして
  いるのですから、これが中国側の史料で唯一の邪馬台国の場所を記
  述したものではないでしょうか。
   『日本書紀』の国生み神話の注に、「日本、此云耶麻騰」と出てき
  ますので、『隋書』倭国伝の邪摩堆=耶麻騰なのでしょう。

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