聖徳太子御書並如来御返翰は本物か

1.はじめに
 『善光寺縁起集註 巻第五』に所収の「聖徳太子御書並如来御返翰(注1)」には往復書簡集の形で聖徳太子と善光や麻績善光とのやり取りの手紙が計6通掲載されていますが、これらの手紙がなぜか法隆寺が所有する「善光寺如来御書箱」に納められているとのことです。
 そこでこれらの手紙が法隆寺に納められた経緯などを考察してみます。

(注1)国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本仏教全書. 第120巻 寺誌叢書 第4』(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952824/145?tocOpened=1)のコマ番号175~176

2.6通の手紙の概要
 6通の手紙の概略を整理すると次のようになります。
 なお、日付の年号については、http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/ronbun.htmの「古代逸年号資料」を参照ください。

         往信       返信
        1回目      1回目
(御使)黒木臣
(内容)七言絶句(内容)七言絶句
(日付)命長七年丙子二月十三日(日付)二月二十三日
(差出人)斑鳩厩戸勝鬘(差出人)善光
        2回目      2回目
(御使)甲斐黒木調士丸 二人
(内容)七言二十句(内容)七言絶句
(日付)法興元辛巳十二月十五日(日付)十二月二十五日
(差出人)厩戸勝鬘(差出人)善光
        3回目      3回目
(御使)黒木調士丸
(内容)七言律詩(内容)七言律詩
(日付)法興二壬午歳二月十三日(日付)八月二十三日
(差出人)斑鳩厩戸(差出人)麻績善光

3.御使の人名について
 聖徳太子の手紙を運んだ人物として御使と記されていますが、往信の2回目の甲斐黒木調士丸の後に二人と書かれており、往信の3回目が黒木調士丸となっているので、往信の1回目の黒木臣の記述を重視すると、往信の2回目に甲斐の文字が付されているのは理解できないものの、2回目と3回目の往信は黒木臣と調士丸の二人が御使であったと思われます。
 しかしながら、調士丸のように幼名として「丸」が付けられたのは平将門の鬼王丸が一番早い例ではないかと思われ、推古朝に出て来る調士丸が実在したものか疑問とせざるを得ません。
 甲斐の黒駒を飼養したとされる調子丸の初見は平安時代の『聖徳太子伝暦』と思われますが、渡来系氏族に調使(つきのおみ)氏がみえるので、本来であれば調使〇〇と書かれるべきであり、手紙の調士丸の名は後世の作文とみられます。

 また黒木臣については、インターネットの週刊長野記事アーカイブの記事カテゴリ「足もと歴史散歩」の「163 善光寺如来御書箱 〜阿弥陀さんと聖徳太子の仲〜」によれば、 東京と大阪のデパートで1985(昭和60)年、「昭和の大修理」完成記念で「法隆寺展、昭和資材帳への道」が開かれた時の由緒説明では、部下の阿部臣に御書を託しとなっていることから、黒木臣は誤伝でしょう。

4.日付と差出人について
 返信の1回目と2回目は往信の10日後の日付です。
 また、返信の3回目は往信の半年と10日後の日付です。
 インターネットの信州地域史料アーカイブに所収の『善光寺道名所図会 巻之三』の水内善光寺によれば、第3回は同2年壬午(みずのえうま)8月13日(使者は黒木臣と調士丸の2人)となっていますので、『善光寺縁起集註 巻第五』の往信の3回目を8月に修正した場合には、3回共に返信は往信の10日後の日付となり、なんだか作為的なものを感じます。

 次に差出人についてですが、返信の1回目と2回目の差出人は善光となっていますが、明治初期の文化財調査である壬申検査(1872年)の際に法隆寺の「善光寺如来御書箱」が開封されたことがあり、その際に取られた文書の写しが東京国立博物館に保管されているのですが、それは返信の1回目で、その差出人と思われる箇所には「勝鬘調御」となっており、先ほどの善光の名前も日付も見当たりません。
 また、返信の3回目の差出人は麻績善光となっていますが、これは正に中世的な名前ですので、返信の差出人は後世に追加されたものであり、史実と一致するかは疑問です。

5.近体詩の手紙について
 手紙の内容は6通共に七字を一句として書かれている訳ですが、『懐風藻』の序によれば、大友皇子が活躍した天智朝は日本における漢詩文の最初の興隆期であったようです。
 ただし、漢詩の近体詩は唐時代に確定したとされますから、1回目の遣唐使が帰国したのが643年ですので、推古朝に七言の近体詩の手紙をやり取りしたというのは腑に落ちません。また、天智9年(670)4月に法隆寺は焼失するので、はたして推古朝の手紙が残っていたのかは疑問です。

 従って、御使の人名、日付、返信の差出人などを含め総合的に考えた場合、6通の手紙は聖徳太子がやり取りしたものとは無関係と考えざるを得ません。

 また、「善光寺如来御書箱」には3通の手紙が納められているとされるので、当然返信の3通だと思うのですが、「聖徳太子御書並如来御返翰」では、返信の1回目に「是如来之御真筆也。今猶在大和國法隆寺也。」と、また返信の3回目に「此御返翰奉納太子之庿中云云〇報酬。」とあるのは納得できるのですが、往信の2回目に「右太子庿内二十句之文是也。」とあり、この往信が「善光寺如来御書箱」に入っているのであれば如来御書箱の名前と一致しませんので困ったことになりますが、返信の2回目に「簡牒也。古無紙。有事書之於簡。」とあるので、善光寺縁起の作成時点ですでに紙は無くなっており、如来御書箱にはこの写しが納められている可能性があります。

6.小山善光寺との関連は
 大阪府藤井寺市小山1丁目にある小山善光寺は寺伝によれば、現在、浄土宗に属し、南面山無量寿院善光寺と称します。本尊は信州の善光寺と同じ一光三尊仏阿弥陀如来です。
 推古朝(7世紀初頭)に若使主東人(本田善光)によってもたらされた仏像を本尊として、隆聖法師が津堂城山古墳の北西側(善光寺屋敷の字名が残る。現在の専念寺付近が該当。)に寺院(津堂廃寺)を建立したのが最初であるとされ、実際は出土瓦の様相などから見ると、渡来系氏族(百済王族の辰孫王の子孫か)の津氏(名前から港湾、特に難波津の税を職掌とした一族か)によって7世紀後半に建立されたと思われ、江戸時代初期の慶長年間に小山に移っています。
 小山善光寺に近い羽曳野市高鷲にある式内社の大津神社が津氏の祖霊を祭っていたことから、津氏はこの地方の豪族であったようです。

 この小山善光寺が無量寿院を称していることからも、当初から阿弥陀如来を説くお経「無量寿経」を唱えていた寺院であったと思われますが、無量寿経は飛鳥時代の学僧で近江国滋賀郡の漢人であった恵隠が推古16年に小野妹子らと共に隋に派遣され、舒明11年(639年)に帰国、入京し、翌年5月の設斎で無量寿経を講じたのが最初で、孝徳3年(652年)にも内裏に招かれ、1,000人の沙門(僧侶)の前でふたたび無量寿経を説いているので、後述の尊光上人も無量寿経に深い関心を寄せていたのかもしれません。

 また、この寺に仏像を持ち込んだという若使主東人は、河内を本拠とする西漢人の一族かもしれませんし、同じ漢人であった恵隠と知り合いであった可能性は否定できません。

 この若使主東人が、信州善光寺に仏像を運んだとされる若麻績東人と同一人物とみられますし、名乗りの点で若使主東人の方が使主という古い姓(または敬称)を使っていることから、こちらの方が古い伝承であると考えます。

 さらに、小山善光寺には百済滅亡時に百済王善光(禅広)が河内にいた王氏一族に世話になり、この寺院が建立されたという言い伝えもあり、この王氏一族とは先ほどの津氏ではないかと思われ、『日本書紀』天智3年(664)条には百済王善光らを難波に住まわせたとあるので、これ以降に同族の津氏との縁が出来て、善光の名を冠した善光寺が建立された可能性が大きいものと考えます。

 現在、小山善光寺山門前には「日本最初善光寺如来」と書かれた石碑が建てられていますが、寺伝によれば、「本田善光が難波津から引き上げた一光三尊仏を信濃に持ち帰る途中、宿泊した丹比小山里で隆聖法師としりあう。仏像があまりにも立派であったため、ともに祈ったところ、仏像は2体に分かれた。そこでその2体を信濃と丹比小山の善光寺の本尊とした。」と書かれており、非常に信濃善光寺に配慮した表現になっています。

小山善光寺の石碑

 なお、信州善光寺からは7世紀後半の瓦が出土しているので、この時代に初期の寺はあったのでしょうが、『善光寺縁起集註 巻第五』には「天子御代代如来御崇敬之事」として初代・欽明天皇から11代・文武天皇までが記され、その後に「如来供養奉仕之檀那次第之事」として初代・若麻績東人善光から24代・丈部知隆までが記されており、これをどう解釈するかですが、信州善光寺に一光三尊仏阿弥陀如来像が到着し、善光寺と称したのは早くて文武朝の8世紀の初めと解釈するのが妥当ではないでしょうか。

7.法起寺との関連は
 信州の善光寺大本願(浄土宗)は642年に皇極天皇の命により聖徳太子妃であり、蘇我馬子の娘であった尊光上人(刀自古郎女)が開山したとされます。

 一方、奈良県斑鳩町にある法起寺は、元は岡本宮と呼ばれ、聖徳太子が長子である山背大兄皇子に岡本宮を仏教寺とするよう遺言したのが始まりとされ、その後、舒明10年(638年)に福亮僧正が金堂を建立し、天武14年(685年)に恵施僧正が宝塔建立を発願し慶雲3年(706年)に完成して伽藍を整えたそうで、法起寺は「池後尼寺」、「池後寺]、「岡本寺」などの様々な呼称があり、天平期の古記録には「池後尼寺」とあるので、当時は尼寺であったと考えられます。
 従って、この尼寺に尊光上人が住していたとも考えられますし、聖徳太子一族の菩提を弔うために「無量寿経」に関して小山善光寺と何らかのやり取りをしていた可能性が考えられます。そして、そのやり取りを記録に残し法起寺に保管していたのではないでしょうか。

 『日本霊異記』によると、岡本寺は大和国平群郡鵤村にあった尼寺というが、平安時代の後半から鎌倉時代の前半に至るおよそ二百年間、岡本寺の寺号は『法隆寺別当次第』にたびたび登場します。それはその当時の岡本寺が法隆寺別当の支配下にあったからで、また『法隆寺別当次第』によると経尋律師が法隆寺別当在任中(1109年~1129年)に法起寺の九輸一口が盗まれ、地盤と覆鉢を取り下し、本寺すなわち法隆寺の倉に納め置いたことが記されており、この事から類推すれば、先ほどの法起寺の記録が法隆寺に伝来し、「善光寺如来御書箱」に保管された可能性が考えられます。

 なお、法起寺から小山善光寺への移動ルートは、飛鳥時代に斑鳩里・法隆寺と難波津・四天王寺を結ぶ街道として整備された竜田越奈良街道を通り、大和川と石川の合流地点で古代大津道に移り、約3km西進するルートが最短です。

8.まとめ
 寺社の縁起はその資料の性格上どこまで史実を述べているのか悩むところですが、『善光寺縁起集註 巻第五』に所収の「聖徳太子御書並如来御返翰」の6通の手紙は聖徳太子が当事者では無く、また善光寺の寺号や一光三尊仏阿弥陀如来を持ち込んだ人物名は藤井寺市の小山善光寺に由来するものであり、6通の手紙は小山善光寺と奈良県の法起寺とのやり取りに関する記録で、その記録が法起寺から法隆寺に伝来し、その一部が「善光寺如来御書箱」に納められたものであると推定されます。
 そして『善光寺縁起集註 巻第五』に「聖徳太子御書並如来御返翰」が盛り込まれたのは、法隆寺が小山善光寺とのやり取りに関する記録を発見し、これは信州善光寺に関係するものと思い込んで問い合わせをし、信州・善光寺が法隆寺に出向いて調査した結果であると解釈されます。
 従って、「聖徳太子御書並如来御返翰」もご多分にもれず聖徳太子(厩戸王)と同時代の史料ではないようです。

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