古代の的氏の出身地の考察

1.はじめに
 的(いくは)氏については、「的氏の地位と系譜」(『日本古代の氏族と天皇』直木孝次郎著、塙書房、1964年に所収)に詳しい考察がされており、その出身地としては、的氏の本来の故郷が山背か河内かは不明だが、その祖先伝承を形成した6世紀において、河内・和泉を重要な基盤として栄えた氏族であるとされている。
 これは一つの有力な意見ではあるが、ここでは別の見解を提示してみたい。

2.「的氏の地位と系譜」の概要
 前掲書の概要は次のとおりです。
(1)平城宮の宮城十二門の内、的門は的氏の名を門号としており、的氏は軍事的氏族
である。
(2)『古事記』孝元天皇段で建内宿禰から出たとする二十七氏の内、二十五氏が臣姓
で、その内の十九氏の氏名が地名から出た可能性が高く、地名との関係が確認でき
ない的、波美、佐和良、阿芸那の四氏も地名から出たと考えるのが妥当であろう。(3)的氏は襲津彦出身の地と信じられていた葛城地方と関係の深い地域に栄えた豪族であり、朝鮮支配という職務の類似から襲津彦を祖と称するようになったのではないかと考える。

3.的氏に関連する日本書紀の概略内容
 的氏に関連する『日本書紀』の内容は概略次のとおりです。

的邑 -福岡県うきは市-景行天皇遠征地(景行18年条)
的戸田宿禰加羅に遣わされ、襲津彦らと共に帰還(応神16年条)
盾人宿禰(的臣の先祖)朝廷でただ一人、鉄の的を射通す(仁徳12年条)
的戸田宿禰上記を褒めて、盾人宿祢が的戸田宿禰を賜る(同上)
砥田宿禰(的臣の先祖)新羅に遣わされ、朝貢せぬことを詰問(仁徳17年条)
口持臣(的臣の先祖)皇后を呼びに出掛けた(仁徳30年条)
国依媛(口持臣の妹)皇后に仕える(同上)
的臣鹿嶋罪を犯し投獄される(仁賢4年条)
的臣安羅に駐在する(欽明5年条)
的臣任那に駐在し、百済を助けるが死去する(欽明14年条)
的臣真嚙穴穂部皇子らの殺害を命じられた(崇峻2年条)

4.景行18年条の的邑と装飾古墳
『日本書紀』の景行18年条には、景行天皇が熊襲征伐の帰りに的邑に着いて食事をした時、食膳掛が盞(うき、さかずき)を忘れたので、当時はその地方を浮羽(うきは)といい、今、的(いくは)というのはなまったものであり、昔の筑紫の人々は盞を浮羽といったという的邑の地名の由来を載せている。
 この話の出所は的氏ではないかと考えられ、景行天皇が熊襲征伐に参加したのは史実ではないにせよ、書紀の編者が的氏の主張する邑名の由来を採用した結果ではないかと思われます。

 ところで的邑の現在地である福岡県うきは市の吉井町には珍敷塚古墳(6世紀後半)や日ノ岡古墳(6世紀初頭)があり、その壁画には蕨手文を有する装飾古墳として知られていますが、この中には「的(同心円文)」や「盾」の図柄も描かれており、的臣や盾人宿禰の名字と無関係ではないのかもしれません。

珍敷塚古墳の壁画(出典:ブログ「ひもろぎ逍遥」)

 蕨手文は中国の羊頭壁画(最盛期は紀元前48年~紀元23年)や高句麗の壁画古墳の影響を受けているとの意見もあり(「珍敷塚古墳の蕨手文の解釈に関する一考察 -中国漢代羊頭壁画との比較から-」藤田富士夫、敬和学園大学 「人文社会科学研究所年報」 No.4(2006年5月)に所収)、的氏は渡来系氏族と考えられます。

5.名乗りの変遷の考察
 3項の表で応神16年条の的戸田宿禰は仁徳12年条で的戸田宿禰を賜るとする記述と矛盾するので、応神16年条は的宿禰と修正し、名乗りの変遷を図式化すると次のような案が考えられます。

 ウェブサイトの「日本姓氏語源辞典」では砥田宿禰の砥田は、「推定では砥ぐ場所と田から。兵庫県淡路市佐野に分布あり。」とあり、名字の分布は兵庫県西宮市(約10人)、姫路市(約10人)で、兵庫県のみにみえる稀少姓です。
 砥田宿禰が瀬戸内海の水軍系統の氏族と考えた場合、的氏と結びついて的戸田宿禰と称し、朝鮮支配に従事したとも考えられます。

6.まとめ
 的氏は渡来系の北部九州(福岡県うきは市)出身の豪族であり、その一部が九州遠征時のヤマト王権の誘いに応じて畿内に移住し、朝鮮支配などで活躍した可能性はないでしょうか。

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