稲員家系図はどこまでが史実なのか

1.はじめに
 福岡県久留米市にある筑後一宮の高良大社の御貢所職であり、また神官領家を称して八人神官を指導し、近世では大庄屋であった稲員(いなかず)家に伝わる系図は、ネットではこの系図は九州王朝の根本史料ではないかとさえ言われているものであり、非常に興味深いものなのですが、5世紀の内容を含むとなると、誰が、何時、何の目的で作成したのか素朴な疑問も浮かんできますので、系図の周辺状況などからどこまでの年代を史実ととらえることが可能なのかを中心に探ってみたいと思います。

2.高良大社の創建と神宮寺
 『高良玉垂宮神秘書・同紙背』(高良大社、1972年、川添昭二ほか編著、以下神秘書という。)に掲載されている高良大社略年表によれば、天武元年(673年)に「高良三所を勧請す。ついで高隆寺建つ。」と書かれており、この出典は「二十二社註式」と「高隆寺縁起」とされていますが、「二十二社註式」とは、文明元年(1469年)に吉田兼倶が撰したとされる書であり、国家の重大事、天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣を受けた畿内の22社の成立次第を揚げているものであり、高良大社と直接関係するものではありません。
 従って、「高隆寺縁起」が高良大社の創建を記した唯一の書ということになるでしょう。
 しかしながら、高隆寺は高良大社の神宮寺であり、当然のことながら高良大社より後の神仏習合の時代に建てられたお寺であることから、そのお寺の縁起が出典ということは、いささか信憑性に欠けるきらいがあります。
 太宰府市の竈門神社の場合は、創建が8世紀後半で、神宮寺の竈門山寺については延暦二十二年(803年)の記録が残っているそうなので、高良大社や高隆寺の場合も、ほぼ同時期と想定しても大きな間違いはないものと思われます。

3.高良大社の祠官家
 神秘書によれば、高良大社の祠官家として、大祝家、大宮司家・座主家、八人神官家、神管領家、武管領家などがみえ、大祝職には、最初は物部氏が、戦国時代には鏡山氏が就任しています。
 鏡山氏については、高良大社の末社に鏡山神社があることから、この鏡山氏は鏡山大神社がある福岡県田川郡香春町大字鏡山を名字の地とする一族とみられます。
 また、大宮司職・座主職には、「高隆寺縁起」に「丹波氏法体座主職俗体大宮司職」とあり、丹波氏が就任していたようですが、神宮寺の座主職を兼ねていたことから、この座主の名乗りに注目すると、天長元年(824年)に比叡山の延暦寺の義真が初めて天台座主を称したことから考えれば、丹波氏の座主職就任は早くても平安時代の話かと思われます。
 その後の大宮司職には神部氏、武内氏、岩井氏が順次就任し、天文年中(1532~1555年)に居屋敷を西南麓の宗崎に移してから宗崎氏を称したそうです。
 御貢所職には草部氏が就任しており、草部氏の後裔が稲員氏です。
 熊本県の阿蘇神社は古くは草部(日下部)氏が祭祀の主体であったとされ、草部姓は草部吉見神(日子八井命)の地縁ではないかとされる阿蘇外域の草部(草壁)郷の地名に纏わるともいわれており、高良大社の草部氏も同族であった可能性が考えられます。

4.高良大社の支配層の輪郭
 神秘書には高良大社の支配層に関して9行の異筆書入れがされており、その内容は、「人皇四十代天武天皇白鳳二年、父保続令嫡男保義継家督ヲ、高良山社職惣官号、大祝、奉守護明神、・・・」とあり、解読文によれば、「父保続、嫡男保義を高良山社職惣官とす 次男良継は武臣、神代に拠る 三男保依は妻帯の社僧となり、隆慶と称す 四男保通は当社大宮司、宗崎を称す 五男連成は草壁氏これより稲員・本司・川口・安曇氏分出す」とされていますが、神秘書の編者によれば、「大祝家・座主家・大宮司家・八人神官家・武官領家等々は、同一家系では決してなかったと考えられる。しかし、近世に入ると本書三十九頁の異筆書入れのように、奉仕の家々はいずれも神孫で白鳳二年保続より分出したものである、と考えられるようになる。」と記しており、筆者も3.項の検討結果から編者の考えに同意するものであり、近世を生き抜くために有利と判断した結果、加筆が行われたもので、稲員家は決して大祝家の物部氏の家系でなかったことは確かでしょう。

 また、太田亮著『姓氏家系大辞典』の「鏡山」の項でも、鏡山氏の系図や伝説に記述されている物部美濃理麻呂保続に五男があって、嫡子が大祝家の祖、二男が神代氏の祖、三男が丹波氏の祖、四男が大宮司家の祖、五男が草壁氏の祖とあるのは、「此等の諸氏を以って、大祝より分ると為すは誤れり、各別々の姓ありて全く出自を異にす、」と断定しており、至極当然な結論です。

5.大祝家・物部氏とは
 神秘書によれば、大政大臣物部保連(藤大臣と申す。)の従兄(又は子)の日徃子尊が高良大明神の大祝になったとされ、以後の大祝は鏡山氏であると書かれており、この神秘書は鏡山氏時代のものであることが推察されますが、神秘書の編者は成立年代は不明としながらも、中世末期から近世初期の編述とみてほぼ間違いなかろうとしています。
 従って、神秘書には物部氏が大祝だった時代の歴史を物語るものは何も書かれていない状態であると判断されます。
 駿河の「久能寺縁起」でも、久能寺の創建者の話として大政大臣尊良の二男久能の名前が見え、大政大臣というのは半ば定番の尊称のようなものであり、史実ではありません。

 しかしながら、『宗像大社文書 第三巻』に所収の「宗像大菩薩御縁起」の中に七戸大宮司事として、7名の大宮司の内、第一者宗形滋光とあり、次に第二者物部福實が登場し、「筑後国高良玉垂藤大臣ノ御乳子也、成志附妻、有子、早祝軄定之、」と注記がありますので、この御縁起が作成されたとされる鎌倉末期には、高良大社の大祝家は物部氏であり、藤大臣の末裔を称していたのは確かなようです。
 『日本書紀』によれば磐井の乱を制圧した物部麁鹿火が継体天皇から筑紫より西はお前が統治し、賞罰も思いのままに行えと言われた人物なので、物部麁鹿火の従兄である物部阿遅古連(『先代旧事本紀』の「天孫本紀」では水間君等の先祖とある。)が磐井の乱後に筑後国三潴郡に派遣され、その後裔の物部氏が高良大社の大祝家になったのではないかと推測されます。

6.稲員家系図について
 高良大社系古文書に所収の稲員家系図には稲員氏先祖以来、年数及び代数記として、「元祖孝元天皇曾孫玉垂命物部連公ヨリ三十三代美濃理麻呂保続有五男。白鳳二年癸酉、五家ニ別宅ス。至延暦二十年辛巳星霜百二十九年、右保続ノ五男自連成至保帯九代高良山ニ住ス号草壁氏。」と書かれ、これは4.項の異筆書入れや太田亮著『姓氏家系大辞典』の「鏡山」の項に相当するものであり、稲員家の先祖の草壁氏が物部氏に連なるとした、いわゆる仮冒系図の典型的な例です。

 系図の初代である物部連公が神秘書の物部保連と同一人物か定かではありませんが、神秘書が戦国時代から大祝職であった鏡山氏の手になるものであり、御貢所職の草部(壁)氏の後裔である稲員氏がこの神秘書や鏡山氏系図{『姓氏家系大辞典』の「鏡山」の項に武内宿祢(亦名玉垂命、亦物部保連)を初代とする系図がある。}を参照しつつ、初代大祝家の物部氏の歴史をも語ろうとした系図であることから、本系図に高良大社創建以前の人名は掲載されていないものと考えるのが妥当です。

7.物部氏の成立時期
 物部の「部」は、ヤマト王権の部制の部で、物部氏は部制が成立した後に現れたウジであり、部制導入の時期は5世紀末から6世紀はじめ頃です。
 物部の中央における伴造(管掌者)の地位に就任したのは、継体天皇の即位を支持した物部麁鹿火かその一族で、この時にウジとしての物部氏が成立したと考えられます。

 従って、九州王朝の天子の初代高良玉垂命(物部保連、没年:仁徳78年)が4世紀になって博多湾岸地域から筑後の⽔沼(現、三瀦郡)に遷都したとするストーリーは、部制の成立時期から考えてもあり得ないことです。

8.まとめ
 稲員家系図の周辺状況を中心に検討した結果、この系図は本姓が物部氏の系図とされているものの、実は大祝職の物部氏が作成したものではなくて、物部氏とは無関係な御貢所職の稲員氏が作成した仮冒系図であり、どこまで史実を記述したものかは不明ですが、神秘書の作成年代から考えれば、戦国時代の壁を越えることは出来ないものと判断されます。
 当初、あわよくば高良大社創建以前の物部氏の歴史が記述されているのではないかと期待していたのですが、人名が列記されているのみで、他の社家系図のように郡の大領であったとかの記述が一切なく、とても古代史を語る系図でないことは確かなようです。

「稲員家系図はどこまでが史実なのか」への2件のフィードバック

  1. 戦国時代頃までの系図情報を開示していただければ何らかのコメントができると思います。
    ご検討ください。

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