出雲国造家系図の信ぴょう性

1.  はじめに
  3世紀前後の時期の大型四隅突出型墳丘墓としては、島根県出雲市の西谷古
 墳群の2号墓、3号墓、4号墓、9号墓が、また島根県安来市の塩津山墳墓群の
 6、10号墓が知られ、弥生時代後期には出雲地方の東西に大きな政治勢力が
 形成されていたものと考えられています。

  そして、一部の考古学の研究者からは4世紀前半に出雲平野を含む日本海
 沿岸地域で前方後円墳が一斉に出現していることに注目され、楽浪郡の滅亡
 などの政治的混乱により交易拠点の福岡市・西新町遺跡や出雲市・古志本郷
 遺跡が衰退して朝鮮半島との交易上の優位性が無くなり、代わって4世紀中
 頃には朝鮮半島南部との直接的な交易にヤマト王権が乗り出していったもの
 との見解が示されているので、これらを踏まえて出雲国造家系図の信ぴょう
 性を考えてみたいと思います。

2.出雲国造家系図
  出雲国造家系図は、『神道大辞典』(平凡社、1941年)に、
 天穂日命―武夷鳥命―櫛瓊命―津佐命―櫛𤭖前命―櫛月命―櫛𤭖鳥海命―
 櫛田命―知理命―毛呂須命―阿多命―氏祖命―襲髄命―来日田維穂命―
 三鳥足奴命―意宇足奴命―宮向―布奈―布禰―意波苦―美許―叡屋―帯許―
 果安―廣島―弟山―益方―國上―國成―人長―千國―兼連―旅人―豊持―時信―
 常助―氏弘―春年―吉忠―國明―國經―頼兼―宗房―兼宗―兼忠―兼經
 のような系図が紹介されており、『日本書紀』崇神天皇六十年条に出雲の
 神宝にまつわる紛争の記事関連で出て来る出雲振根、飯入根、甘美韓日狭と
 鸕濡渟は見えない。
  また、『古事記』垂仁紀の岐比佐都美もここには出てきません。
  これは、国造家がこれらの記事の人物とは無関係であると解釈されます。

3.出雲国造とは
  出雲国造がどのように説明されているのか、代表的な辞書からみてみよう。
 ① 世界大百科事典(第2版、平凡社、1998年)では、
  古代出雲の豪族。出雲東部の意宇(おう)平野を本拠として台頭し,5世紀
  末から6世紀前半には出雲全域にわたる地域国家を形成し,その王として
  君臨した。
  しかし6世紀後半から,まず出雲西部に,ついで意宇平野の東にもヤマト
  朝廷の制圧が及んでくると,服属して出雲国造とされた。
  (以下、省略。)
 ② 日本史辞典(角川書店、1996年)では、
  古代出雲の在地首長。出雲東部を本拠に、天穂日命を祖として出雲臣を称し
  た。
  令制下では意宇郡大領に任命され、国造就任時に神賀詞奏上など補任儀礼を
  行った。代々、出雲大社の祭祀をつかさどり、南北朝期に千家・北島の両家
  に分かれ、今日に至る。

 となっており、②の8世紀に入ってからの話に異論はないが、①の5~6世紀の
 話が史実なのかは確たる史料もなく、前出の出雲国造家系図でも王を称する
 人物が見当たらないことからも、このように断言してよいものやら理解に苦し
 むところです。
  『先代旧事本紀』国造本紀では出雲国造の初代を、瑞籬朝(崇神天皇)の
 御世に天穂日命の十一世の孫である宇迦都久怒命(書紀では鸕濡渟)として
 おり、そもそも国造制とはおよそ6~7世紀に実施された地方支配制度であり、
 ヤマト王権が政治的関係を結んだ各地の有力氏族を国造に任命して、当該地域
 の支配権を保証したとするのが通説であり、国造本紀の宇迦都久怒命を初代
 出雲国造とする記述は誤記と考えます。
  『出雲国風土記』によれば、出雲臣氏が大領なのは意宇郡と楯縫郡のみで
 あり、出雲大社がある出雲郡の大領が日置臣氏となっていることからも、出雲
 氏がいつ「出雲臣」を称するようになったのかも問題なのですが、出雲国造を
 名乗ったのは出雲臣果安の和銅元年(708年)からではないかとも考えられま
 す。

4.出雲臣の初見と出雲国造
  『続日本紀』によれば、出雲狛は大宝二年(702年)8月に従五位下に叙せ
 られ、同年9月には臣姓を与えられているので、『日本書紀』の壬申の乱に見
 える出雲臣狛の表記は、壬申の乱の功臣の後裔が書紀の改変に係わった結果で
 あろうと考えます。
  地方の出雲氏が中央に進出した出雲氏より早く「臣」姓を名乗ったとは考え
 にくく、また『日本書紀』斉明天皇五年条に出雲国造に命ぜられて神の宮を
 修造させられたとの記事があるが、当時の出雲郡の支配者は下記5項の内容か
 ら日置臣氏と思われ、また出雲臣果安が杵築大社に移ってきたのが霊亀二年
 (716年)なので、この書紀の出雲国造の記述は壬申紀の出雲臣狛の表記と
 同じく書紀の改変かも知れず、出雲国造は大宝令による一国一国造の「新国
 造」であった可能性が考えられます。

5.出雲郡の支配者
  『日本書紀』崇神天皇六十年条の出雲振根、飯入根、甘美韓日狭、鸕濡渟
 の四名は出雲郡の支配者の一族であり、出雲国造家とは別の氏族であるのは
 出雲国造家系図からも容易に想像されます。
  国造本紀の宇迦都久怒命が、出雲郡宇賀郷や宇迦能山に関係がありそうな
 ことや、出雲市には石の異名である雲根を称する雲根神社があり、同じく
 出雲市の比那神社には石神様が祭られていることからも、想像をたくましく
 すれば、出雲振根とは石神様の別名であったのかもしれません。
  これらの後裔氏族について、太田亮著の『姓氏家系大辞典』の神門臣の項
 では「此の氏の出所は、姓氏録、右京神別に「神門臣、同上(出雲臣祖鵜濡
 渟命の後)」と。 
  また出雲国造系図に「氏祖命、亦の名は宇賀都久野命、神門臣云々等の
 祖、」とありて姓氏録と一致す。」とありますが、神門臣氏が出雲臣氏と同
 族であるとするのは無理がありそうです。
  出雲郡の南隣には神門郡があり、神門郡は『日本書紀』推古二十五年
  (617年)条に出雲国から「神戸郡に瓜有り。大きさ缶の如し」と言ってきた
 とあり、当時、正しくは神戸評と表記されていた可能性もありますが、神門
 郡が杵築大社 (出雲大社) の「神郡」(郡内の租・調・庸を特定の神社のもの
 とする制度)であった可能性があります。
  出雲臣果安は霊亀二年(716年)に杵築の地に移ったとされており、果安
 の時代の熊野神社や杵築大社の「神郡」は意宇郡であったので、推古朝の
 神門郡や出雲郡の支配者は出雲臣氏とは別の氏族であった可能性が考えられ
 ますが、先ほどの『日本書紀』推古二十五年条の記述からしてヤマト王権と
 敵対関係にあったとは思われません。
  なお、霊亀二年(716年)の「出雲国造神賀詞」奏上は、国家からの要求
 ではなくて、出雲臣果安からの働きかけによるものであるとの意見があり、
 もしそうであるならば、出雲臣果安は正に中興の祖とでも言うべき人物では
 ないでしょうか。
  『出雲国風土記』によれば、神門郡の大領が神門臣氏で、出雲郡の大領が
 日置臣氏なので、『日本書紀』垂仁天皇三十九年条の十種の品部の1つに日
 置部が載せられており、日置部氏は神事に最も関係の深い氏族ではないかと
 されていることや、6世紀後半に築造の松江市岡田山1号墳出土の「額田部
 臣」銘入大刀からヤマト王権が出雲に部民制を導入したのは欽明朝ではない
 かとされ、この頃に日置臣氏も出雲郡に入部し、神門臣氏に代わって杵築大
 社の神事を執り行い、後に神事を出雲臣氏に委ねて出雲郡の支配に専念した
 とも考えられます。
  また、『出雲国風土記』の神門郡条日置郷には、「郡家の正東四里、志紀
 嶋宮御宇天皇(欽明天皇)の御世に、日置伴部たちが遣わされて宿停(とど
 ま)り政務を執った所である。だから日置という。」とあり、意宇郡舎人郷
 には、「郡家の正東二十六里の所にある。志貴島宮御宇天皇(欽明天皇)の
 御世に、倉舎人君たちの先祖、日置臣志毘が大舎人としてお仕え申し上げた。
 そしてここは、志毘が住んでいたところである。だから、舎人という。この
 郷には正倉がある。」とあり、出雲国の東西に日置臣氏が進出してきたこと
 が窺われます。

6.出雲神話との関連
  『風土記から見る日本列島の古代史』(瀧音能之著、平凡社新書、2018年)
 によれば、「出雲氏が出雲の東部を拠点としていたときに信仰していたのはク
 マノ大神であったと考えられる。それが西部への勢力拡張によって、出雲全域
 を支配した段階において、西部の神であったオオクニヌシ(オオナモチ)を
 自分たちが奉斎する神として、天の下造らしし大神として、出雲全域の神と
 位置づけたのではなかろうか。そのオオクニヌシがまだ出雲の西部の神であっ
 たときの信仰圏の中心が朝山郷であったとみるならば、『出雲国風土記』の朝
 山郷の記載もスムーズに受けいれることができよう。」とされ、さらに、
 「スサノオ神の本貫地については、『出雲国風土記』の須佐郷の伝承が、他の
 スサノオ神の伝承と比較して密度が高いことを考え合わせるならば、やはり、
 須佐郷をスサノオ神の本拠地とするのが穏当であろう。」としています。
  「記紀神話」ではスサノオノミコトは民衆の神ではなくて、天照大神の弟と
 して登場するし、高天原で天照大神に乱暴をはたらき、追放されて出雲に来た
 ことになっています。
  これは出雲神話を天照大神中心の物語に吸収した結果であり、「記紀神話」
 は宮廷の貴族によって作り出されたもので、いわゆる官製神話とでもいうべき
 ものであり、史実を探る手掛かりにするには相当な注意が必要です。
  従って、出雲の国譲りの時期は、上記5項で述べた如く6世紀とするのが妥当
 かもしれません。

7.おわりに
  出雲は九州に次ぐ量の古代朝鮮半島系土器や鉄を出土しており、権力の源泉
 は朝鮮半島との交易の掌握にあったと思われ、『日本書紀』仁徳即位前紀に屯
 田司であり出雲臣の先祖として登場する淤宇宿禰の存在が古代出雲の有力な
 豪族であっことを示しているのかもしれませんし、早くからヤマト王権に出仕
 していた一族だと思われますが、系図からはその様子を窺うことはできませ
 ん。
  記述が簡素化されている系図なので仕方がない側面もありますが、少なくと
 も8世紀の果安の時代からが出雲国造家の実態をよく示すものと考えられ、そ
 れ以前の世代については確たる史料もなく評価が困難であるとするのが現時点
 での結論ではないでしょうか。

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