邪馬臺(台)国の場所

1. まえがき
 邪馬臺(台)国の場所については古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』では福岡平野にあったとするが、福岡平野に7万戸が存在したとするには面積的に狭いとの専門家の意見もあり、この問題を解決するためには邪馬台国が筑紫平野や佐賀平野にまで広がった領域とすればよいが、当時、そのような広域国家が成立していたのかは、『日本書紀』の景行天皇の九州巡行時の地名伝承などからも想像することは難しいので、つまりは、『魏志』倭人伝の内容そのものに問題があるのではないかと想像されます。

 そこで、この問題点に対して解決策を提示していると思われる大阪学院大学人文自然論叢<論説>第77-78号(2019年3月)に所収の田中章介氏の「『魏志』倭人伝に係る、もう一つの解釈―邪馬台国位置論に関連して―」について、その概要の紹介と感想を述べてみたいと思います。

2.田中説の概要
(1)『翰苑』の『魏志』に先行して成立した『広志』逸文の、「倭國東南陸行
  五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉國」については、「倭国は、東南に陸路を
  500里行けば(曲折を経て)伊都国へ到達し、そのうえさらに、南に
  (約1500里)行けば(目標の)邪馬嘉国に行きつく。」と解釈できる。
(2)上記の『広志』逸文に続けて、「百女國以北、其戸數道里、可得略載」と
  する記述があり、「女国」は「邪馬嘉国」の代名詞として用いられている、
  と解される。
(3)『翰苑』の『魏志』に先行して成立した『魏略』逸文に、「自帯方至女國
  万二千餘里」とあり、(2)項の女国と対応しているが、1万2千里の精度を
  問うべきではなく、この「伊都国-女国」間の算術上の行程約1500里は全体
  行程12000余里を前提にしていて、一種の比例的・相対的解釈である。
(4)『法苑珠林』や『魏略輯本』の『魏略』逸文に、「倭南有侏儒國。其人長
  三四尺。去女王國四千餘里」とあり、『魏略』が厳密に「女国」と「女王
  国」を書き分けていることは明らかである。
(5)『三国志』の最古の版本である「北宋咸平6年(1003年)国子監刻本」よ
  り約20年早く成立した『太平御覧』が引用する『魏志』倭人伝は、版本中の
  『魏志』倭人伝の稿本とみる三木太郎氏の見解を重視し、『太平御覧』に
  「自帯方至女國萬二千餘里」とあり、この「万二千余里」も「帯方-女国」
  間であるが、伊都国の記述に続けて、「又東南至奴国百里(中略)又東行百
  里至不弥国」云々とあり、次に「又南水行二十日至於投馬国戸五万(中略)
  又南水行十日陸行一月至邪馬臺国戸七万女王之所都」云々とあるので、女国
  と邪馬臺国は明らかに別の存在と解釈される。
   『太平御覧』からの結論は、不弥国から邪馬臺国に至る「南水行30日陸行
  1月」の行程は、帯方郡から女国(邪馬嘉国)に至る全行程12000余里の一
  部分区間ではなくて、不弥国からの全く別の行程である、ということに落着
  するのである。
   以上のことは、『魏志』倭人伝(『三国志(百衲本)』)の本文17-21行
  目の投馬国ないし邪馬壹国の記述が、文脈上、明らかに挿入句と解されるこ
  とからも推論される。
(6)「南水行30日陸行1月」での方位「南」については、地理学の室賀信夫、
  海野一隆両氏の見解を採用して、日本列島が南北方向に長い形態だと信じて
  いた結果だとし、東が南に変えられた可能性は十分にあるとの意見に賛成で
  ある。
   また、「南水行30日陸行1月」での日数については、日数行程が実際的
  距離の表示であるとすると、水行と陸行の合算は意味をなさないし、『延喜
  式』の京から太宰府までの所用日数が、「行程上廿七日。下十四日。海路
  卅日」とあることから、不弥国-邪馬臺国間を「水行すれば30日、陸行すれ
  ば1月」と解釈できそうである。
   以上から、邪馬壹国=邪馬臺国は女王卑弥呼の都する国ではなくて、初期
  ヤマト政権あるいはその前身にほかならない、と推定できる。
(7)日数記事は倭人からの伝聞であって、魏の南下気配を観取した倭人が、
  魏の倭国侵攻を牽制した首都防衛上の虚偽情報であると解され、当該日数
  行程のみならず、最重要目的地「邪馬壹国女王之所都」こそまさに虚偽情報
  であると考えざるを得ない。さらに言えば、それは当時すでに台頭著しかっ
  た大和の勢力を示唆し、その首都との混同を企図した情報ではなかったか。
(8)卑弥呼は邪馬嘉国の女王であり、「倭」王として君臨していたのである。

3. 感想
(1) 著者の言うように12000里や、「伊都国-女国」間の計算上の1500里
  に精度を問うべきではないとするのは同感です。
   前漢代に編纂された『淮南子』の時則訓にあるように、万二千里とは
  中国の世界観に基づき、四海のはずれを示す記号的数値となっており、
  魏王朝の間接的な支配が及ぶ限界の地という意味を持たされていたと考
  えられるとの意見もあり、また航路距離の実測は無理であり、同様に陸
  路も歩測だったとしても煩雑ですので、とても実測されたとは思えませ
  ん。
   その邪馬嘉国は女王の祭祀機能と連合国家の統治機能を置くだけの小
  国家だった可能性があり、伊都国の中心とされる福岡県糸島市の三雲・
  平原・井原鑓溝遺跡付近と近接していた可能性が考えられます。
   特に、平原遺跡ではイヤリング、ネックレス、ブレスレットなどが出
  土し、高貴な女性が埋葬されていた可能性が指摘されており、一部には
  卑弥呼の墓ではないかとの意見がありますので、本遺跡は田中説の有力
  な補強材料かもしれません。
(2)水行30日陸行1月の日数行程のみならず、最重要目的地「邪馬壹国
  女王之所都」こそまさに虚偽情報との意見であるが、倭国防衛のために
  そのような知恵が働いたとはにわかには信じ難いです。
   『後漢書』倭伝の、王は世襲制で、その大倭王は邪馬臺国に住んでい
  るとの記述は、『後漢書』を撰した范曄が生きた時代は倭王「讃」の使
  者が東晋や宋に朝貢していた時期に当たり、『古事記』において大倭を
  冠した和風諡号の天皇には、懿徳、孝安、孝霊、孝元がいるので、大倭
  王とは大和(ヤマト)王を意図した表現かもしれず、著者の言うよう
  に、『魏志』倭人伝(『三国志(百衲本)』)の投馬国や邪馬壹国の
  記述が文脈上、明らかに挿入句と解されるとするならば、後に邪馬壹国
  や投馬国も中国と通交があったので、その情報を彼らなりに理解した結
  果を『魏志』倭人伝に追記したと考える方があり得る話かもしれません。
   また、著者が言う水行30日陸行1月は無理矢理合算した感じは否め
  ず、投馬国と邪馬臺国間の水行10日陸行1月の部分のみを水行すれば
  10日、陸行すれば1月と読んだ方が素直ではないでしょうか。
(3)『魏略』逸文の「女王国」が邪馬壹国を意図したものであるのかは意
  見が分かれると思いますが、いずれにしても、女国、女王国、邪馬嘉国
  などの入り乱れた情報を陳寿なりに整理した結果が『魏志』倭人伝であ
  り、後に手を加えられたものが版本として出回っているとの解釈も成り
  立つ訳で、邪馬嘉国の卑弥呼が北部九州周辺を統治しており、後の情報
  から邪馬壹(臺)国や投馬国が九州から離れた地にあったと中国人は
  理解していたと考えてもあながち間違いではないのかもしれません。
   『太平御覧』が伊都国の記述に続けて、「又東南至奴国百里・・・
  又東行百里至不弥国・・・又南水行二十日至於投馬国戸五万・・・又南
  水行十日陸行一月至邪馬臺国戸七万女王之所都」としているのは、『魏
  志』倭人伝の表現では邪馬台国までの行程に解釈が分かれ、誤解を招く
  恐れもあるので、中国人が立ち寄らなかった国々については国と国を又
  で直線的につなぎ、倭人から聞いた日数、月数で表示したと考えるのが
  妥当ではないでしょうか。
(4)『倭名類聚抄』の筑前、吉備(備前、備中、備後、美作)、畿内の郷
  数の比は概略、2:5:7であり、倭人伝の奴国(2万戸)、投馬国(5万
  戸)、邪馬台国(7万戸)の比と同一であることからも、卑弥呼がいた
  場所が伊都国近傍の邪馬嘉国であり、畿内の邪馬台国とは遠く離れた別
  の場所にあったと言えるでしょう。
(5)本件は『魏志』倭人伝(『三国志(百衲本)』)の信頼性に係わる問
  題ですが、百衲本とは異なった版本を寄せ集め、欠落を補うことで完本
  にしたものですので原本との相違は否めず、田中説は一つの有力な意見
  ではないかと考えます。
   結局のところ、『三国志(百衲本)』のみに依拠した議論はいつまで
  も決着がつかず、時間の無駄であると思われます。

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