倭の五王に係る書紀の信ぴょう性について

1. はじめに
 『日本書紀』には倭と宋との外交において宋は呉として書かれ、その交流は
(1)応神37~41年、(2)仁徳58年、(3)雄略6年、(4)雄略8~10年、
(5)雄略12~14年に記述されています。
 一方、これに対応する宋の記事は『宋書』列伝や帝紀に記述されています。
 ここでは特に『日本書紀』の記述の信ぴょう性について有益と思われる論考「大化前代の紀年Ⅱ」(『北海道教育大学紀要』32巻、2号に所収、栗原薫、1982年)を紹介すると共に、倭の五王の一部について思うところを述べてみたい。

2.「大化前代の紀年Ⅱ」の概要と評価
  宋に関連した内容の概要を表にまとめました。

日本書紀宋書
応神41年(425年)、呉への遣使から帰還した。(応神40年、41年の干支は己巳、庚午で、これを辛酉起点半年一年の干支とみると、通常の紀年は乙丑となるので、425年のことである。)元嘉2年(425年)、倭王讃が遣使する。(応神37年の呉への遣使出発から応神41年の帰還まで実に5年を要しており、半年一年暦では2.5年で往復したことになるので、最後の1年で宋に渡り、直ぐに帰ったとすれば辻褄が合う。)
仁徳58年(425年)、呉と高麗が倭国に朝貢した。(仁徳58年の干支は庚午で、これを辛酉起点半年一年の干支とみると、通常の紀年は乙丑となるので、425年のことである。)(元嘉2年(425年)の倭王讃の遣使と仁徳58年は同年であるので、讃の使者の帰還に合わせて、呉と高麗の答礼の使者が倭国に来たのである。)
雄略6年(462年)、呉が貢物を奉った。
(雄略6年の干支は壬寅で、462年のことである。)
大明6年(462年)、倭国王の世子・興を安東将軍に除正した。(雄略6年と同年なので、雄略6年は除正の通知のために倭国に来たのである。)
雄略12年~14年(477年、478年)、呉に遣使した。(この雄略紀の記事は6年繰り上がっているので、6年引下げると雄略18年~20年の遣使となり、干支は甲寅、乙卯、丙辰。これを辛酉起点半年一年の干支とみると、通常の紀年は丁巳、戌午となるので、477年、478年のことである。)昇明元年(477年)、倭国が方物を献じた。
昇明2年(478年)、倭王武が遣使した。
(倭が2回来たとなっており、雄略紀の記事はまとめて書かれたと思う。)
雄略14年(478年)、上記の倭の使者の帰還と共に呉の使者が来た。昇明2年(478年)、倭王武を安東大将軍に除正した。(雄略14年は除正の通知のため倭国に来たのである。)
雄略8年~10年(478年)、呉に遣使した。(この雄略紀の記事は6年繰り上がっているので、6年引下げると雄略14年~16年の遣使となり、干支は庚戌、辛亥、壬子。これを辛酉起点半年一年の干支とみると、通常の紀年は乙卯、丙辰となるが、これをさらに誤解して辛酉起点半年一年の干支とみると、通常の紀年は戊午となるので、478年のことである。)(昇明2年(478年)の倭王武の遣使の年であり、雄略12年~14年の遣使の後半の別史料である。雄略8年~10年と雄略12年~14年の使者が身狭村主青等で共通なのはその為である。)

 この表では史料の記事を太字(西暦を追記しました)で、解説文を括弧書きにしました。
 古代日本の紀年は「辛酉起点半年一年の暦」が基本となっており、それに部分的な修正を加えれば中国干支と一致するとされていますが、実際には干支を紀年とした史料をもとにして、『日本書紀』のどの天皇に当てはめて何々天皇の何年という紀年に書き換える作業はなかなか厄介で、どれが通常紀年か「辛酉起点半年一年の暦」の紀年か分からなくなって生じた誤解もあるとされています。
 この栗原氏の論考に対して、一部には辻褄合わせをしているだけとの批判もあるようですが、著者の『日本書紀』の宋との外交関連記事には信ぴょう性があるとの結論に、大筋で賛同できるものと考えています。

3.倭国の使者の特徴とヤマト王権
 『日本書紀』の倭国の宋への使者が、阿知使主、都加使主、身狭村主青、檜隈民使博徳であり、全員が東漢氏に属する朝鮮半島南部の伽耶諸国の有力国である安羅出身の一族とされており、大和国高市郡檜前郷が東漢氏の居住した地であり、雄略紀に渡来系の集団が多数入植し、開発が進められたとみられています。
 『新撰姓氏録』逸文には、阿智王が応神天皇より大和国檜前郡郷を賜ったと書かれていることからも、4世紀末には日本列島に移住してきたものと思われます。
 この背景には、古くは列島各地の首長のもとに渡来系の諸集団がそれぞれ独自に所属していたが、ヤマト王権の力が伸長し、地方の首長層を圧倒するようになると、新たに移住してきた渡来人の多くは列島の政権の中枢にある権力者に擦り寄るために直接、ヤマト王権のお膝元である畿内に定住するようになった事情があったものと考えられます。
 以上のことから、『日本書紀』の宋との外交はヤマト王権が主導したものであり、この面からも「倭の五王」とはヤマト王権の王であると判断されます。

4.倭王武について
 雄略天皇の崩年は『古事記』に記載の干支は己巳で、「辛酉起点半年一年の暦」では485年ですから、『梁書』列伝や『南史』帝紀、列伝の天監元年(502年)の倭王武の征東大将軍への除正記事とは明らかに矛盾しています。
 これを根拠に倭王武は雄略天皇ではないと主張する向きもありますが、この除正は南朝梁(502年~557年)の初代皇帝の即位にあたり建国を祝しての進除とみられており、倭国が梁に遣使していないのに称号だけが進められている形式的な記述と判断されますので、これをもって倭王武が雄略天皇ではないとする古田武彦説は無理があります。

5.おわりに
 「倭の五王」についての議論は出尽くしている感がありますが、古田武彦氏が存在を主張した九州王朝との関りは一切見当たりませんし、今までの検討結果からも九州王朝の存在自体が非常に疑わしいものです。

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