『宋書』倭国伝の司馬曹達について

1.まえがき
 『宋書』倭国伝の元嘉二年(425年)条にある倭王讃の朝貢の使者の司馬
曹達について、任那日本府で現地採用された官職名が司馬を名乗る中国系の
人物であり、倭讃の使者として宋に上表文、そして曹達の発案・進言により
高句麗で得た方物を届けたとする意見もありますが、これには疑問な点があ
りますのでそれを記すと共に、別の解釈を提示してみたいと思います。

2.疑問点
(1)当時、倭国で「司馬」や同様の官職名が使われていた例が見当たらな
  いので、曹達が倭王の臣下なのかは疑問です。
   地理的に中国に最も近い高句麗の官制は、漢族王朝の官品のように品
  階に対応した官職体系や、文官・武官別の編制が行われた痕跡も見い出せ
  ないとする意見が支配的です。
   百済の場合の「王・侯・太守」制の萌芽は450年以前に求められよう
  が、その積極的な活用は475年の漢城陥落にともなう熊津遷都ののちと
  考えられており、地方の太守で将軍兼司馬を名乗った人物は、472年の龍
  驤将軍帯方太守司馬張茂が最古の例のようです。
   また、倭国でも中国の律令制度や官職の体系を調査し、ある程度は理解
  していたと思われますが、大化改新以前の武門の官職は来目部、靫負部、
  大刀佩部であり、この時代に大宝令で制定された四等官(長官、次官、判
  官、主典)は存在していなく、大宝令において征討の役がある時に編成さ
  れる軍隊では、将軍・副将軍・軍監・軍曹・録時が指名され、中国の官職
  名である校尉・司馬・軍侯などをそのまま採用している訳ではないことも
  上記の疑問に繋がります。
 (2)倭国関連の中国の正史である『宋書』、『隋書』、『旧唐書』におい
  て倭国の遣使の使者名らしきものが記載されているのは司馬曹達だけであ
  り、これを倭国の使者だとすると、よほど特殊な例ではないかと思われま
  すが、名前を記載した理由が見当たりません。
   単に中国語が堪能であっただけでは名前が記載されるはずもなく、『旧
  唐書』日本国伝では使者の粟田朝臣真人について、朝臣真人とは中国の戸
  部尚書のような官であるとの説明が付加されていますので、曹達の場合も
  倭国の使者として「司馬」を名乗ったのであれば、倭国の武門の体系等を
  質問され、その結果が『宋書』に記載されているはずだと思うのですが、
  何も記載されていないのは不思議です。

3.前燕の司馬冬(佟)寿の場合
  前燕の慕容仁の幕下にあった司馬冬寿(289~357年)は慕容皝に討伐さ
 れて高句麗に亡命しますが、北朝鮮の安岳3号墳の彼の墓誌銘が示す称号は
 「使持節、都督諸軍事、平東将軍、護撫夷校尉、楽浪相、昌黎・玄菟・
 帯方太守、都郷侯」であり、冬寿亡命後の高句麗の東晋への遣使は1回のみ
 であることから、高句麗の庇護下にあった冬寿が高句麗の遣晋使を通じて
 東晋の正式な称号は受けなかったと思われることから、自称していたので
 はないかとみられています。
  冬寿は前燕の時の「司馬」の官職名を名乗っていないことから、自称とは
 言え高句麗にはない官職名は名乗らなかったものと考えます。
  従って、もし司馬曹達が倭王の臣下であったならば、倭国にはない司馬を
 名乗らなかったのではないでしょうか。 

4.『宋書』倭国伝の解釈
  「讚又遣司馬曹達奉表獻方物」を、「讃は、また司馬曹達を遣わして表を奉
 り方物を献ず。」と解釈すれば曹達は讃の臣下であるように読めますが、
 「遣」を使役助動詞と考えれば、「讃は、また司馬曹達をして表を奉り方物を
 献ぜしむ。」と読めるので、この場合は宋の司馬の職にあった曹達を介して表
 の奉呈と方物の献上をしたものと解釈されます。
  つまり、宋の司馬職の曹達を介して倭国王の書を奉呈したのは通常のルー
 トではなかったので、わざわざ「司馬曹達」の名前を『宋書』倭国伝に記入し
 たものと考えます。

5.『日本書紀』との整合性
  『宋書』倭国伝の元嘉二年条にある倭王讃の朝貢について、『日本書紀』の
 応神三十七年~四十一年条に対応しているのですが、応神三十七年条には使
 者の阿知使主・都加使主が高麗国に渡って呉(宋のこと)へ行こうと思ったが
 道が分からず、高麗王が道案内として久礼波・久礼志をつけてくれたので呉に
 行くことが出来たとの記事があり、『太平御覧』にこの時の朝貢の方物として
 高句麗の特産品が書かれているのは、『日本書紀』のこの記述からして納得で
 きるものです。
  雄略紀に遣宋使だった身狭村主青と檜隈民使博徳は雄略二年条に書記の職務
 である史部として登場しており、また応神紀の遣宋使であった阿知使主や
 都加使主の後裔の一族なので、宋との交流の記録はほぼ正確に『日本書紀』に
 書き写されたものと思われます。

6.おわりに
  わが国では国司の三等官である「掾」の唐名の「司馬」が使われていた例と
 しては三善為康撰の『後拾遺往生伝』に「国老越州司馬出雲貞則」がみえます
 が、これは平安時代の話であり、『宋書』倭国伝の司馬曹達については、宋の
 武官の可能性は否定し難いと考えます。

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