秦王国とは

1. はじめに
 『隋書』俀国伝の大業四年(608年)に裴(世)清が竹斯国から東に向かい
秦王国に至ったという記事があり、この秦王国がどこにあったのか、または誤
伝なのかについては諸説があるので、主要な説を概観すると共に、以下に思う
ところを述べてみたい。


2.主要な説
(1)鳥越憲三郎説
『中国正史 倭人・倭国伝全訳』(中央公論新社、2004年)によれば、秦王
国は道筋に該当する所がないが、新羅(辰韓)が中国からの亡命人であると
いう説もあるので、船員の説明不足か、使者の聞き損ないによる記事と考え
られる、としている。
(2)谷川健一説
『四天王寺の鷹』(河出書房新社、2006年)によれば、裴世清一行はまず
大宰府に赴き役人らの接待を受け、大宰府から陸路東への道を選んだと推定
され、その行程にある香春や行橋は秦氏が集中して居住していた地域である
から、そこを秦王国と見なしたのだろう。周防の国を秦王国と聞き違えたと
するのはあたらない、としている。


3.秦王国の実在性
 日本列島に○○王国を称する国が実在していたのかは疑問です。
 中央では官位十二階が制定され、地方には国造や伴造などが任命されてい
た時代ですので、とても独立王国を主張するような時代背景にはなかったも
のと考えます。
 しばしば反乱を起こした隼人や蝦夷においても、王国を主張した形跡は見
当たりませんので、秦王国という国名は中国側の勝手な解釈の可能性があり
ます。


4.秦王とは
 『新撰姓氏録』左京諸蕃上の筆頭には太秦公宿禰が記載されており、この
中に仁徳天皇が「詔曰。秦王所献糸綿絹帛。朕服用柔軟。温暖如肌膚。仍賜
姓波多。」とあり、また『新撰姓氏録』山城国諸蕃には秦忌寸が記載されて
おり、この中の仁徳期に真徳王、普洞王、雲師王、武良王の名がみえます。
 さらに『群書類従』に所収の「廣隆寺来由記」によれば、『新撰姓氏録』
に記載の秦王とは普洞王のことを指しています。
 佐伯有清氏もその著書『新撰姓氏録の研究 研究編』(吉川弘文館、
1963年)で、秦王というのはおそらく普洞王をさしているのであろうと
指摘しています。
 『大和の豪族と渡来人』(加藤謙吉著、吉川弘文館、2002年)によれば、
5世紀に葛城地方に居住した渡来系の秦氏は、葛城氏滅亡後に山背の深草や
葛野などの地に強制移住させられたと思われるのが6世紀に入ってからだと
されています。
 筆者はこの葛野の秦氏が、以前、我が祖先の秦王が豊国に住んでいたと
称して豊国に入国した可能性を考えています。
 宇佐神宮の祠官家の1つであった渡来系の辛島氏は新羅から筑紫神社、
さらに香春経由で宇佐に進出したとの言い伝えがあるので、葛野の秦氏も
新羅から豊国や葛城を経由して葛野に来た可能性があります。

5. 豊国の状況
 『日本書紀』景行十二年条には、豊前国の長峡県に着いて、行宮を建てて
お休みになり、そこを名付けて京(京都郡)と言ったとあり、また仲哀八年
条には、岡県主(福岡県遠賀郡芦屋町付近)の先祖の熊鰐が天皇を出迎え、
御料の魚や塩を取る区域として、穴門(関門海峡辺り)から東は向津野大済
(宇佐市)とし、西は名籠屋大済(北九州市戸畑区)を申告したとする記事
を載せており、さらに安閑二年(535年)条には豊国に滕碕屯倉・桑原屯倉
・肝等屯倉・大抜屯倉・我鹿屯倉を置いたとあります。
 比定地としては、滕碕屯倉(北九州市門司区)・桑原屯倉(福岡県築上郡
築城町)・肝等屯倉(福岡県京都郡苅田町など)・大抜屯倉(北九州市小倉
南区の貫川流域の大貫・長野・曽根付近)・我鹿屯倉(福岡県田川郡赤村)
が考えられており、港湾型屯倉の肝等屯倉は、近くに屯倉主の墓ではないか
とされる恩塚古墳(横穴式石室の円墳、6世紀後半、直径25m)があり
注目されます。
 正倉院に残る大宝二年(702年)の豊前国戸籍で福岡県京都郡に近いのは
仲津郡丁里であり、豊前国で濃密に分布する秦部の部民が組織された時期に
ついては幾つかの見解がありますが、ヤマト王権が関西以西の各地に支配権
を樹立した6世紀前半代が考えられるので、秦王を先祖に持つ葛野の秦氏が
ヤマト王権の屯倉や部民を管理・統率する立場で豊国に入国した可能性が考
えられます。
 加えて、葛野の秦氏の旧地が豊国であったならば、管理もスムーズに行わ
れたのではないでしょうか。
 『ウィキペディア』の「聖徳太子」の項では、推古天皇10年(602年)に
新羅征討の軍を起こした時、「来目皇子の筑紫派遣後、聖徳太子を中心とす
る上宮王家及びそれに近い氏族(秦氏や膳氏など)が九州各地に部民を設置
して事実上の支配下に置いていったとする説もあり」とあるので、時代背景
から言っても葛野の秦氏の豊国入国はあり得る話だと思います。

6.『新唐書』日本伝などとの関連
 『隋書』俀国伝の大業四年(608年)の段では、裴世清が竹斯国から秦王
国に着き、また十余国を過ぎて海岸に到着するとあり、それ以降の行程は書
かれていませんが、『日本書紀』推古十六年(608年)の、小野妹子に従っ
て裴世清一行が筑紫から難波津に着き、飛鳥の都に入ったとする記事に対応
しており、また『新唐書』日本伝では、用明はまた目多利思比孤ともいい、
隋の開皇(注:581~600年)末にあたる。この時初めて中国と国交を通じ
たと書かれていることからも、裴世清一行が船で筑紫から中国側が主張する
秦王国(福岡県京都郡苅田町付近)を経由して難波津に向かったと考えるこ
とは自然ではないでしょうか。
 特に、この時代において屯倉の設置状況などを考慮すると、北部九州を
統治する在地勢力が存在していたとは考えられず、ヤマト王権にとって筑紫
は海外の窓口であったと思われるからです。
 また、筆者は『隋書』俀国伝では海岸に到着して以降の話を割愛し、
『旧唐書』でも曖昧なままにしていた6世紀末のヤマト王権との国交のこと
を、『新唐書』日本伝では唐側から『隋書』の阿毎多利思北孤(=『新唐
書』の目多利思比孤)とは歴代の天皇の誰に対応するのかと問われて、用明
天皇のことであると日本側が回答した結果を『新唐書』にそのまま記入した
のであろうと考えています。
 倭国側が推古天皇の治世であるにもかかわらず、なぜ多利思比孤とは用明
天皇のことであると回答したのかですが、『三国史記』新羅本紀の善徳王
十二年(643年)九月条には、あなたの国では婦人が王になっているので
隣国から軽んじ侮られ、やがて王を失い、いつまでも侵略が続き安らかな
年がなくなってしまうので、唐から王を派遣しようとの提案が太宗からあっ
たとの記事を載せているので、時代は前後するものの中国側に女帝を見下す
意識が存在していたと思われ、倭国ではこのような事態を懸念して、推古
天皇ではなくて用明天皇の治世と回答した可能性が高いと考えます。
 そして6世紀末から7世紀初頭にかけての天皇が用明であることについて
は中国側が不審に思ったようで、14世紀の『宋史』日本国伝には、隋の開皇
年間に聖徳太子は使者を遣わし、海路中国に来て法華経を求めさせたとある
ので、この時点でようやく『隋書』の開皇二十年(600年)の阿毎多利思北
(比)孤は特定の天皇の名前ではなくて、いわゆる「天足彦」という普通
名詞であり、開皇年間の倭国の外交を主導したのは聖徳太子だったという
ことで決着をみたのではないでしょうか。
 つまり、中国の正史と言えども外交関係の伝聞記事の矛盾点や疑問点は、
以後の正史で見直しされ、解消されるのが当然であり、『隋書』の記述のみ
に依拠した議論は史実を見誤ると考えるからであり、阿毎多利思北(比)孤
のことを九州王朝の天子とするのは的外れです。
 また、『隋書』の開皇二十年の遣使の記事が『日本書紀』に見当たらない
のは、倭国にとって成果がなく、むしろ兄弟で政務を分担していることなど
に対して、高祖文帝から「それははなはだ道理のないことだ。」と言われ、
屈辱を感じたので『日本書紀』には載せなかったのでしょう。
 さらに、日本の国号が対外的にいつ頃から使われたのかも明確ではないの
ですが、18世紀に編纂された『明史』日本伝では唐の咸亨年間(670~674
年)の初めに国名を日本と改めたと記されており、この時点でようやく中国
側が日本への国名変更時期を確定させたようです。
 そもそも博多湾沿岸を含む地域が竹斯(=筑紫)国と呼ばれていた時代で
すから、邪馬台国時代の国とは1つの国の大きさが違うと思われ、7世紀初頭
に十余国が北部九州内に存在していたというのは無理な話かと考えます。
 磐井の乱の時に磐井が制圧した国が、『日本書紀』によれば肥前、肥後、
豊前、豊後の4国しか挙げられていませんし、『先代旧事本紀』国造本紀に
よれば、北部九州で筑志より東には豊、宇佐、国前、比多の4名の国造しか
いないことからも、十余国とは瀬戸内海の国々のことでしょう。

7.おわりに
 裴世清一行が筑紫から難波津へ行く途中に入港した時の多数の見物人の顔
つきが中国人と似ており、どこに着いたのか尋ねると、過去に福岡県京都郡
苅田町付近に秦王を称する人物が住んでいたなどと山背の葛野出身の秦王の
子孫から返答され、その時の中国側の使者が秦王国と記録してしまったので、
『隋書』俀国伝には秦王国の国名がそのまま採用されたのではないかと推測
してみました。

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