法隆寺釈迦三尊像光背銘の不思議

1. はじめに
 法隆寺金堂の釈迦三尊像光背の裏に記されている銘文の末尾には「使司馬鞍
首止利佛師造」となっており、一般には「司馬鞍首(しめのくらのおびと)止利
 (とり)仏師をして造らしむ。」と読まれていますが、「司馬鞍」とは不思議
なウジ(氏)なので真相を探ってみたい。

2. 司馬鞍首止利とは何者か
 鞍部(作)氏については、『日本書紀』の敏達紀から推古紀までで、鞍部村
主司馬達等-鞍部多須奈-鞍作鳥の祖父、父、子の三代の名前が確認出来ます。
 ここで注目すべきは鞍部村主司馬達等ですが、鞍部村主は『新撰姓氏録』
逸文に掲載の村主姓30氏の1つである鞍作村主と同一とみられており、この
人物は応神朝に朝鮮半島から渡来した阿智王の子孫の東漢氏の管轄下に置かれ
ていた渡来人であり、馬の鞍や仏像などを作っていた技能者であろうと思われ、
ヤマト王権が認めたウジが鞍部であり、カバネ(姓)が村主です。
 その後裔が鞍作鳥であり、推古紀13年4月条に元興寺の銅造と刺繍の一丈
六尺の仏各1体の造仏を鞍作鳥に命じていることからも、釈迦三尊像光背銘
の仏師止利とは鞍作鳥のことであり、法隆寺の釈迦三尊像の製作にもかかわ
っていたと思われます。
 従って、関係するウジは鞍部や鞍作であり、ウジを司馬鞍とする釈迦三尊像
光背の銘文は不思議であり、後世の作の可能性があります。

3. 『元興寺縁起』では
 『元興寺縁起』にはその造塔に関して4人の人名が記されており、その中
の一人として「鞍部首名加羅爾」の名前があり、ウジは鞍部です。
 この加羅爾のカバネが首であることから、鞍作鳥(止利)の上位者であった
可能性が考えられます。

4.雄略紀の鞍部氏
 雄略紀7年条に「天皇詔大伴大連室屋、命東漢直掬、以新漢陶部高貴・鞍部
堅貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那等、遷居于上桃原・下桃原・
眞神原三所。」とあるので、新漢(いまきのあや)とは東漢氏らより後に渡来し
た人たちで、この中に鞍部堅貴なる人物がいたということです。
 これらのウジに、陶、鞍、画、錦、訳語(=通訳)の語が使われていること
から、特殊な技能を持った人たちです。
 従って、敏達紀の鞍部村主司馬達等より以前に鞍部堅貴が鞍などの製作を
主導していたのでしょう。
 新漢の彼らが転居したのが上桃原・下桃原・眞神原とのことですが、桃原
とは推古紀34年5月条に馬子大臣を桃原墓に葬ったとの記事があるので石舞台
古墳の近くにあった地名と思われ、眞神原とは崇峻紀元年条に法興寺を建立
した場所を飛鳥の眞神原としているので、法興寺の周辺だったのでしょう。

5.『元亨釈書』では
 鎌倉時代の仏教通史である『元亨釈書』巻第十七、願雑十之二、王臣二では
「司馬達等」の名前がみえますが、これは「司馬」がウジであると誤解した
結果の表記と判断されます。
 日本における「司馬」とは、国司の判官である「掾」の唐名の「司馬」が
私的に使われていた可能性がありますが、時期的には律令制下の平安時代以降
のことと思われます。

6.法興年号について
 この銘文の冒頭に古代の私年号と思われる「法興」が使われていますが、こ
れは仏教的色彩が濃いものであり、後世の仏教関係者によって仮託された架
空の年号であるとみられることから、銘文は平安時代以降に刻まれたもので
あると推測されます。

 『釈日本紀』の「幸于伊予温湯宮」の項では、「伊予国風土記曰」に始まり、
その後、「碑文記云 法興六年十月歳在丙辰我法王大王」と文章が続くので、
法興の年号は碑文記からの引用であり、伊予国風土記からのものではありま
せん。
 碑文記という書名からして中世的であり、とても風土記以前に碑文記が完成
していたとは信じられません。
 また「聖徳太子御書並如来御返翰は本物か」で取り上げた中にも法興年号が
使われていますが、ここでの結論は年号以前の問題として聖徳太子と同時代の
史料ではないことであり、法興の年号をもって歴史を論ずることは出来ないと
考えます。

7.まとめ
 法隆寺釈迦三尊像光背銘の「司馬鞍首止利」については、ウジ・カバネに
錯誤がみられ、とても推古朝の銘文とは思われません。
 これは鞍作氏の系譜が残っていなかったので、後世の人が鳥(止利)のフル
ネームを想像し、また止利の祖父の名である司馬達等のウジを「司馬」と誤解
した結果ではないかと思われます。

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