息長氏について

1.まえがき
 記紀における有名氏族の息長氏についてはさまざまな先行研究がなされていますが、その中から『学習院史学26号』に所収の「継体王系と息長氏の伝承について」篠原幸久著と『日本古代国家成立期の政権構造』(倉本一宏著、吉川弘文館、1997年)などを参考にして思うところを述べてみたい。

2.継体天皇は息長氏の出身か
 継体=息長氏論の前提となる古事記の継体天皇の近江出身説については、日本書紀にみえる父の彦主人王の近江国高嶋郡三尾の「別業」、つまり継体の出生地(その語義からいえば継体系の本貫を離れた一つの経営拠点であること以上の意味をもたない)と結び付けられ、日本書紀が後に継体が母方の越前で成長し、そこから大王に擁立されたと説くが、古事記は簡略に「自近淡海国、令上坐而」とその出身=出生地を述べただけであり、継体の本貫は近江や越前ではなく、よって継体の出身氏族が息長氏ではないとの説は有力ではないかと思われます。
 また、継体天皇に関連する事項としては、仿製鏡である隅田八幡宮人物画像鏡の銘に「癸未年・・・孚弟王在意柴沙加宮時・・」という文字が見られることは広く知られるところであり、癸未年については、西暦503年説が有力です。
 そうであるならば、継体の父親が「上宮記」では汙斯王であり、書紀では彦主人(ウシ)王、継体が書紀では彦太(フト)尊とも呼ばれていることから、人物画像鏡銘の孚弟王はフト王と呼ばれていたのではないかと思われ、つまり即位前の継体天皇は意柴沙加(忍坂)宮にいたことになるのでしょう。
 この意柴沙加宮とは忍坂大中姫の後宮の跡で、この宮は一族に伝領され、6世紀初頭には即位前の継体の宮殿になっていたのであろうと想定されています。
 従って、書紀に記されているように継体が河内の葛葉宮で即位し、山城の綴喜・乙訓を経て20年目に大和の磐余の玉穂に都を移したというのは史実ではなさそうです。
 おそらく継体は継体陵と推定される今城塚古墳のある三島野古墳群とかかわる摂津在地勢力の首長であり、淀川水系を媒介として山背南部、近江、さらに越前、尾張といった地域の政治勢力と結びつき、河内南部や和泉北部勢力を抑えて大王位についたとする説には説得力があります。
 もちろん今城塚古墳が継体陵なら、今城塚古墳の西の約1kmのところにある大阪北部最大の古墳である太田茶臼山古墳の築造年代が5世紀半ばと考えられているので、その被葬者は継体の祖父の可能性が出てきます。

3.記紀の息長氏関連記事の信ぴょう性
 息長氏関連の内容について、敏達天皇までは古事記の、舒明天皇から天武天皇までは日本書紀の記事を要約すれば、
 (1)息長氏は記紀の王統譜に「王」名の王族として位置付けられる一方、そ
   こに反覆的な伝承を定着させている。
 (2)「河内王朝」の神話的始祖である神功皇后にオキナガタラシヒメの名を
   与え、舒明天皇の諡号にもオキナガタラシヒヒロヌカとそのウヂ名がみ
   える。
 (3)古事記では継体の曾祖父意富富杼王に息長氏の出目が置かれ、その父若
   沼(野)毛二俣王が息長氏の血を引く。
 といったところです。

 ここで、この記事をどのように評価するのかですが、大方の意見としては、近江国坂田郡の二大首長墓群(姉川流域・長浜垣籠古墳群-坂田酒人氏、天野川流域・息長古墳群-息長氏)の造墓状況は、五世紀以前における坂田郡内の有力首長は坂田酒人氏こそ想定されるべきであり、元来坂田酒人氏との従属関係にあった息長氏が、坂田郡域で自立化し畿内勢力との直接の政治的関係に入ったのは六世紀以降であるとされており、息長氏が歴史的事実として王権と接触するに至ったのは敏達天皇と息長真手(王)の女広姫との婚姻時点であり、敏達と大后広姫の間に出生した押坂彦人大兄皇子が、その子田村皇子(舒明天皇)の即位により新王統の始祖とされたことが息長氏伝承の敏達前代の王権史への加筆のきっかけだったとする説が有力です。
 また、敏達王系と密着した疑似皇親氏族息長氏の伝承は既成の王権史の構成論理に沿う形で、継体系譜を遡及していくことを許されたのであり、逆に五世紀の二つの大王系譜を史実の核にもつ仁徳系の二王統(履中系・允恭系)に息長氏伝承がみえない理由もここに求められるであろうとする説は妥当な意見のように思えます。

 尾張氏の場合も、書紀の孝昭天皇の皇后・世襲足媛、日本武尊の妻・宮簀媛、崇神天皇の妃・大海媛の記述は事実ではなく、これは尾張氏が壬申の乱の功臣であったので加筆が許されたのであろうとみられ、息長氏と同様な書紀の加筆の例です。

4.息長氏の真人姓賜姓について
 天武紀13年10月条では八色の姓が制定され、その筆頭の真人に息長公ら13氏が賜姓されています。
 その理由について倉本一宏氏は概略次のように述べられており、妥当ではないでしょうか。
(1) 越前や息長氏ら北近江の豪族は継体の擁立、後背勢力として大きな功績
  を残した。
(2)書紀に息長真手王の女とされる広姫が敏達皇后となり、その所生の押坂
  彦人大兄 王子が父方からも母方からも純皇室系の始祖となり、舒明以後
  の大王位を独占し天武に至ったが、息長氏は皇祖大兄御名入部(忍坂部や
  丸子部といった押坂彦人大兄皇子伝来の私領)の湯人として純皇室系の
  王子女を養育し、その形成、維持に大きく寄与した。
(3)壬申の乱において、その帰趨を決するほどの戦功があった。
  書紀に直接的な言及は無いが、近江軍が息長氏の本拠地を通過して7月2
  日には玉倉部邑で撃退され、7月7日の息長横河でも近江軍は破れた経緯
  からして、乱の動向を静観していた息長氏ら北近江豪族が7月7日の戦
  には大海人軍に加担し、一気に近江軍が滅亡へと向かったことは、北近江
  豪族の活躍のたまものであり、乱後の天武朝における彼らの処遇を決定的
  なものにした。

5.おわりに
 記紀には息長氏で王を名乗っている人物が散見されますが、息長氏自身が王族でないのは明らかであり、北近江の豪族出身氏族であったことは確かなようです。
 敏達前代の息長氏伝承が虚構であるならば、書紀の気長足姫尊(古事記では息長帯比売命)を称する神功皇后の存在もあやしく、神功皇后関連の記事は虚実を織り交ぜた物語なのでしょう。

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