遠江久野氏の祖を探る

 遠江久野氏の祖は遠江系久野氏の系図では久野宗仲とし、特に紀州藩家老久野家先祖累功書では、「宗仲初ハ工藤ヲ称シ、鎌倉右大臣実朝公ニ仕エ、建保元年五月、和田義盛謀反ニテ御所ヲ攻ル時、宗仲先陣ヲカケ、軍功アル故、勧賞トシテ遠州久野ノ庄ヲ給リ、久野六郎ト号、是ヨリ代々久野氏ト称号ス、此宗仲ハ、久野和泉守宗俊ヨリ十八代ノ祖也」として袋井市域の久野の地を賜り名字の地としたことが明記されています。

 また『鎌倉武鑑』では、「原清行が兄弟に久野四郎宗仲、橋爪五郎維次といふあり何れも武勇の人々なり」とありますが、静岡県の古城研究家である林隆平氏は遠江久野城の久野氏について、「久野氏は藤原南家の工藤介為憲の末裔で原氏三代清行の孫忠宗を始祖と伝えているが、中世における久野氏の事績はまったく不明である。」と言われており、確かに鎌倉時代から約三〇〇年間の久野氏の袋井市域での活動は他家の古文書などにも一切見当たりません。

 そこでまず駿河久野氏との家紋のいわれなどを比較整理し、そこから遠江久野氏の源流をたどっていこうと思います。


 表より遠江久野氏と駿河久野氏は同族で、遠江久野氏は駿河からの分かれである可能性が大であり、遠江久野氏は家紋や出自に関する確かな情報を持っていなかったと考えられます。

遠江久野氏駿河久野氏
家紋初代久野城主久野宗隆の叔父で
育ての親でもあった原頼景が戦功
により将軍・足利義尚から瓜を貰
ったことを契機に「瓜の中に左三
つ巴」を家紋にしたとされ、原氏
と同じ家紋に変更したと考えられますが、原氏の家紋は変更された形跡が無く、「木瓜に違い鷹の羽」が使われており、家紋の由来に疑問が残る。
平安時代に家紋である「瓜の中に三つ星」を神紋とし、新たに「瓜の中に左三つ巴」を家紋にしたとする。
加木屋久野家では江戸時代の初めにこの「瓜の中に左三つ巴」を神紋とし、新たに「丸に下がり藤」を家紋とした。
この「丸に下がり藤」は駿河工藤氏に縁があったことにちなむとされている。
出自藤原南家の末流である藤原為憲(駿河工藤氏)の後裔の久野宗仲を祖とするが、尊卑分脈では原宗仲であり疑問。秦河勝の末流である秦久能の後裔を称し、藤原雄友より藤原姓を賜ったとされる。
名字袋井市域の久野の地にちなむとされ、鎌倉時代から江戸時代まで一貫してここの地名は久野であったが、宗隆・宗能・宗政の名字が「久能」と表記されている例があり謎である。秦久能の名前にちなむとされ、久能季善が平安時代に上総介 平忠常の一味と讒訴され遠島になって以降、「久能」から「久野」 に名字を変えたものとみられるが、江戸時代初めまで久能も併用していた者がいる。
姻戚
関係
久野城主久野宗理の2男宗衡が駿河久能氏の養子になっている。遠江出身の久野宗政と久野維宗の長男維永が駿河出身の加木屋久野家の2代、3代であり、維永は駿河出身の大野村久野氏の娘と結婚している。
所領袋井市域の久野など静岡市域の久能など
識者
は?
遠州中泉の医者・山下熈庵(1657~1738)は、「久野苗氏 遠州ハ久野紋瓜内三巴 駿州ハ久能紋□□□□」と記載している。 注:□は空欄 尾張藩士の中山和清(1765~1829)は、久野氏を遠州人とするのは誤りであると断言している。

     

   

 

 岸和田藩家老久野家の系図でも氏祖は久野宗仲となっていますが、「本国遠江国周智郡原谷久野邑」とし、原頼景の部分には「宗清 工藤三郎兵衛 遠州原之谷城主故世称原殿」と記し、原谷に久野という地名は無いのですが、これは掛川市域の原氏の本拠地である原谷に長く住み、そこから今川氏親の抜擢により久野城主として久野宗隆が袋井市域に進出してきたのではないかと思われます。
 さらにこの系図では、久野宗仲の子である忠宗の部分には「一本忠宗兄原太郎次郎宗俊住遠州原野云云」と記し、原氏及び原野(原野は原谷の近くにあり)との縁の深さを強調しているように思えます。
 遠州下山梨久野家の古文書には「原之谷旧城跡」の図があり、「曰く宗仲より宗清まで原之谷十代居住」と記されていますから、宗隆以前の本拠地が原谷だったことが補強されています。
 ここで原之谷旧城とは原氏の居城である殿谷城(別名 高藤城)だと思われます。
 『尊卑分脈』によれば、宗仲、宗俊共に原氏なのですが、岸和田系図で別本の引用ながら原宗俊の移住先を記しているのは注目に値します。

 また、宗隆の先祖である清宗の系統がいつ頃遠江に入国したのかですが、「岸和田藩久野家文書」によれば兄弟と思われる宗徃、宗清、光憲の三人が掛川市周辺の遠江に縁があった事が確認出来る最も古い記録ですから十五世紀中頃と考えられ、それ以前については、「加木屋系図(本家)」の項で久野氏が引馬(浜松)に住んでいた事や、徳川家康の安堵状に久野氏の所領として国領(浜松市浜北区に比定)があることに注目しますと、「岸和田系図」の項で話題となった久野時憲が加木屋系図の23代季秋らと弘安年中(1278~1287年)に今川基氏の家臣として初めて浜松市周辺の遠江に移住した可能性が考えられます。
 一方、駿河入江氏系図によれば、久野忠宗の子に久野清宗と久野宗俊が記載されていますので、宗俊なる人物は久野氏であった可能性があります。
 また鳴海久野家系図によれば、久野太郎俊仲の箇所に「母は鎌田政家の娘。鎌田俊長を烏帽子親とす。建保の乱に和田党に組し戦死。」とあり、久野俊仲の俊の一字は鎌田俊長の一字を貰っていることから、宗俊の烏帽子親も鎌田俊長であり、宗俊は建保元年(1213年)の和田合戦に参加し敗れたか、それとも累が及ぶのを恐れて姻戚関係にあった遠州原谷の原氏(原三郎清益が平家追討の功により駿河から移ってきたのが最初か?)を頼って落ち延びてきたのでしょう。


 以上から、遠江久野氏の祖は駿河原氏(藤原為憲後裔、入江氏末流)から駿河久野家へ養子として入った久野(久能とも称す)忠宗の弟である久野宗俊ではないかと考えられ、宗俊より後に駿河から遠江に入国した時憲が浜松市周辺に住み、その後裔が宗俊の系統と同様に遠江原氏の配下に組み込まれたのではないかと想像されます。

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