駿河久野氏の故地

 駿河国久能は久能山南麓にあり、ここに久能寺関連の建物や、『静岡市史』によれば鎌倉武士団の拠点があったそうです。
 その例証として、鳴海久野家系図によれば、「鎌田藤次俊政ハ鎌倉ニ属シ、後駿河国久能ニ住建保元酉年和田統ニ組シ滅フ」とあります。

さて、久能の範囲はどこまでなのでしょうか?

 真名本『曾我物語』によれば、頼朝が歌の褒美として梶原景時に駿河国久能十二郷を与えたとあります。この十二郷とは、江戸時代の国学者新庄道雄によると西は静岡市駿河区大谷から、 東は静岡市清水区駒越までの十二村であろうと考えられています。

 しかしながら、梶原景時が本当に久能十二郷を与えられたのかは甚だ疑問のようで、文教女子短大の田川邦子先生によれば、他の例も含めて頼朝が気前よく沢山の領地を大盤振舞いしたとするのは真名本の作者の虚構であろうとしています。

 また、なぜ作者が梶原景時と久能十二郷を結びつけたのかについては、常葉学園短大の大川信子先生によれば、駿河国で梶原一族の多くが無念の最期を遂げたので、その霊を鎮めるために久能寺の千手観音による梶原の済度(迷う衆生を悟りの境地に導くこと)が意図されていたと思う、とのことです。

 さて、久能十二郷で注目される土地は久能山の東隣にある駒越です。駒越地区の小字・船越(ひなくし)は入江氏流船越(ふなこし)氏の名字の地で、その西北に位置する殿沢(とんざわ)も船越氏の居館址ではないかとされ、そこより南の地にある迎(向)山の忠霊塔公園は、確証はないものの室町時代の城址、また久能城の前営城、平安時代の砦跡とも言われている場所です(『駒越史誌』)。

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     駒越地区の図(出典:『駒越史誌』)

 また迎山の西方にある小字・天地ヶ谷(てんちがや)には武家屋敷跡も存在していたようで、船越の北約2.5kmの村松原は入江氏流(遠江)原氏の名字の地であるとされていますから(『駿河志料』)、この辺りで先住の久野氏と藤原南家入江氏族の姻戚関係ができたものと思われます。

 これは久能兵庫頭勝重の娘が駿河に流された藤原清衡の曾孫樋爪次郎兼衡に嫁し、また兼衡も駒越の北の三沢(現在の宮加三)や東の三保などを領したとあることからも傍証されます。

 駒越地区の大字には、駒越、蛇塚、増村(ぞうむら)、殿沢、別府、有渡山(うどやま)があり、駒越地区から有度山へ、さらには後述するように聖地としての久能山への登山は可能だったのではないでしょうか。
 現在の日本平ハイキングコースには宮加三コースがあり、このルートが駒越地区からは最短のルートです。
 その他のルートとしては、鉄舟寺からの村松コース、草薙神社方面からの草薙ルートなどがあり、これらのルートは中世でも活用されていた登山道ではなかったでしょうか。

 また、駒越とは馬が放牧・飼育されていた地名で、このような「牧」を運営していた地元豪族のほとんどは渡来系と考えられ、加木屋系図が平安時代に自らの家を「弓馬之家」と称していることからも駒越地区との関係は否定できません。

 加えて加木屋系図では「惣名ヲ有慶山ト云」とあり、有慶山は有度山の書き間違いだと思いますが、『駿河志料』が「久能山は古くは有度山と称す。」とあることからも、久能山=有度山=有渡山(先ほどの大字)の認識で駿河久野氏の歴史が記述されていたとしても不思議ではないと考えます。

  さらに、秦久能が久能山の城主であったという加木屋系図の記述ですが、奈良時代に久能山に城などあろうはずもなく、これは単に後世の時代錯誤の記述なのかどうかです。
 例えば、源頼朝が本拠を構えた鎌倉を、九条兼実は日記『玉葉』のなかで「鎌倉城」と呼び、 また頼朝が挙兵した直後の治承4年(1180年)、畠山重忠の軍勢が相模国三浦一族の本拠地衣笠を攻めようとしていた時の様子を『吾妻鏡』では「衣笠城」と明記しています。
 実際には城など存在しませんが、元々漢語の「城」とは内外を隔てる壁や、またそれによって囲まれた空間を指す言葉であり、齋藤慎一著『中世武士の城』には、武士の本拠モデルを提示し、惣領屋敷の西に聖地があり、また惣領屋敷の西側に極楽浄土の施設としての阿弥陀堂や墓域が、さらに惣領屋敷の南(西の場合もある)側に現世利益の施設としての寺社、そして庶氏・家臣屋敷があったのではないかと書かれ、鎌倉と衣笠もこの本拠モデルと一致し、武家の本拠モデルの構造と城の呼称は密接に関連すると指摘しています。
 この斎藤氏の考えに従えば、加木屋系図の冒頭譜文に、奈良時代に実在した秦久能が「久能山城主」であったとする記述は、秦久能の墓地がある久能山を聖地とし、秦久能から数えて二十代余りとされる鎌倉時代の久野兼之が聖地の東の駒越(ここは当時久能と呼ばれていたと思われますが、通称として久能山と呼ばれていたのかもしれません。)を本拠としていたので、先祖の秦久能も自分と同じ本拠(=久能山城)の主(あるじ)とみなしていたのではないかと思われます。

 また、かつて駒越の迎山の後ろ(西側)の山間には一石五輪塔が散在していたとの話が『駒越史誌』に書かれており、墓地の跡地ではないかと考えられます。さらに、迎山の南東には若宮八幡社(現在は駒越神社に合祀)が鎮座し、古くは応神天皇を祀る久能路八幡と呼ばれていた可能性もあり、『諸郡神階帳』の有度郡の項には、「久野天神」や「大久能天神」の名もみえることから、平安時代に久野季貞が祈ったという三所神社(天照大神、八幡神、 久能神を祀る)とはこの若宮八幡社だったのかもしれません。
 そうであれば、迎山の地は斎藤氏の唱える本拠モデルとぴったり一致しそうです。

 鎌倉時代には有度山南麓の谷間に在る有度郡久能(静岡市駿河区根古屋)にも久能館があったのかもしれませんが、久野氏の故地として迎山付近を有力候補に挙げておきたいと思います。

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