久能寺の歴史

 以前、鉄舟寺の山門横に掲げられていた久能寺の歴史についての内容は次の通りです。これは康永元年(1342年)6月17日の奥書がある久能寺縁起から作成したもののようです。

  • 由来
    推古天皇の頃久能忠仁が杉の巨木中に五寸余りの金の千手観音を見つけ堂に祀ったこと、補陀略からの老僧の夢告から補陀落山と名付け、寺号も檀那の名に負うこと
  • 行基の事績・駿河七観音寺との関わり・堂塔ほか建物の整備のこと
  • 源清の事柄・源清の再来を通じての平泉とのかかわりと師忠の寄進のこと
  • 星光坊見蓮の事績・永久二年(一一一四)常行三昧堂を建て、例式の勤行が始まること
  • 康平五年(一〇六二)寿勢僧都が法華八講を始めたこと、天仁二年(一一〇九)四月一日実朗上人が三十講を始めたこと
  • 為政者との関わり・平家一門が久能寺経を納めたこと、頼朝の寄進、坊数三六〇、宗徒一五〇〇人、奥座敷衆五〇〇余人を数えたこと、薄墨の笛のこと、
  • 堂舍焼失・嘉禄年中(一二二五、一二二六)の大火以降勢いを失ったこと、
  • 伊豆との関わり・願成院落慶の帰り、船が難破、舞楽関係の什物を失ったこと、などが述べられ、加えて寺の勢いが衰微した。

 鎌倉後期になると寺社の縁起が多く制作され、広く信者に訴えて喜捨を乞うことが行われるようになったので、久能寺縁起もそうした縁起の一つと考えられます。
 縁起で漏れているのは円爾(1202年~1280年)が五歳の時に久能寺の堯弁に師事し、修行したことと熊野十二社のことです。円爾は後に宋に渡り、帰国後東福寺を開山したのですが、『五山文学用語辞典』では久能氏の項に円爾が紹介されています。
 この出典は、臨済宗の僧で東福寺の第一七四世でもあった季弘大叔(1421年~1487年)の著作にある「然余与上人偕承於久能氏門。不可謂无同譜之契。」の一文のようですが、久能氏と円爾の関係は不明です。
 ただ、久能寺の最後の住職が久能(久野)岩雄であったことからも、久野氏の子弟が久能寺に入って寺僧として活動し、また久野氏が開基檀那として久能寺に一定の影響力を及ぼし続けていたことは十分に予想されますので、円爾とも何らかの関係があったと推測されます。

鉄舟寺山門
鉄舟寺熊野十二社
鉄舟寺観音堂

 また熊野十二社については、鉄舟寺に康平五年(1062年)正月の銘がある「十二社権現勧請札」が残されていることから、観音様の守護神としてこの十二社を祀ったものと考えられますが、この札に記載されているのは熊野三所権現を含む十二社であり、いつから熊野十二社と称するようになったのかは不明です。

・八幡大菩薩     ・熊野三所権現     ・金峰山金剛蔵王

・天満天神      ・白山大権現      ・熱田大明神

・祇園牛頭天王    ・走湯権現       ・比叡山王

・加茂大明神     ・貴布祢大明神     ・浅間大明神

久能寺縁起以降の歴史は概略次の通りです。

  • 観応二年(一三五一)、足利直義が祈祷勤行に謝意を伝える。
  • 観応三年(一三五二)、駿河・遠江守護の今川範国が天下太平祈祷のため七日間の勤行を命じる。
  • 今川範氏、今川氏親、今川氏輝、今川義元、今川氏真が禁制を出すなどして久能寺を保護した。

 その後永禄12年(1569年)に至り武田信玄(1521年~73年)が、この久能寺を久能山背後の連峰、有度山の東北、村松の地に移して、その跡に城塞を築いた。そして、移転後の久能寺を武田家の武運長久の祈祷所と定め、隣接の矢部の妙音寺、並びに富士六所権現の別当職兼帯の補任を発令した(永禄十三年正月二十八日付武田信玄書状・鉄舟寺文書)。

 しかしながら、久能寺のすべての塔頭が久能山から一斉に退去したわけではなさそうで、愛知県大府市横根町の久野氏は江戸時代初め(慶長~元和)に駿州久能山より来住したとの言い伝えがあり、元の名字は久能で、墓守(秦久能の墓か)をしていたのではないかと言われていますので、久能寺の塔頭の僧だった久能氏一族が慶長~元和の頃に久能山を最後に退去したものと思われます。

 信玄が久能山に着目したのは自然の要害の地であるだけでなく、今川時代から有度浜一帯で作られていた塩の専売権を入手する意図があったといわれています。
 信玄亡き後、勝頼も従来の武田氏との関係を維持するよう久能寺に要請しています(天正三年二月十三日付武田勝頼書状・鉄舟寺文書)。

 武田勝頼滅亡後、『駿府名君年代記』によれば、「前将軍徳川家康命を伝え、久能山城の、搦手に連なる山脈を開鑿し、絶壁を作り、以て他山の連絡を絶ち、その南方に、虎口一ヶ所を設け、僅かに十七曲の坂あらしむ。是より久能山は、四方ともに全く連続を絶ち、雲際に孤立する危峰となり、其の形、恰も壇を築きたるが如き山とはなりしなり。其の頃、久能寺の衆徒、駿府に至り、請うて曰く、「武田信玄暴威を振って、本寺を移してより、多く年所を経たれども、未だ霊地とするに足らず、従って観音の霊威を損すること幾なるを知らず、仰ぎ冀くば、旧地久能山を賜り、旧の如く安置し奉らん」と。家康曰く、「久能山は、駿府の要害にして、府城の本城とも称すべき地なれば、其の請は容れ難し。他は請のままならん」と。即ち他を請うて許さる。今の久能寺のある所是なり。」とあり、元和2年(1616年)4月、家康没後、この地に遺骸を葬り、東照宮を建立。坂に1159の石段を築いて参道に改められ、これにより久能寺の久能山への復帰が完全に断たれたと言えそうです。

 そして明治時代になり廃仏毀釈の影響もあって村松の久能寺が荒廃し、わずかに観音堂のみとなったが、明治16年、山岡鉄舟が元久能寺の廃地を購入し、鉄舟寺として再建されました。

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