駿河を守る神々の路と久野氏

 静岡県日本史教育研究会編『静岡県の史話 上』によれば、安倍川が氾濫したらどこまで水に浸かるかという想定図があり、その境の線は賎機山から八幡山を結び、そのまま大谷の方に延びているそうです。
 古代において、大谷川は現在よりかなり東に寄った地点で久能の海岸に注いでおり、水流を避けた境の通路が、海からの神が八幡山経由で賎機山の霊域に通じていると史話では想定されています。

 八幡山には静岡八幡神社があり、その境内には天皇社と庁の宮があり、この宮の神事は静岡浅間神社の庁守太夫という神職が行うことになっているそうで、また以前には天皇社の祭日に静岡八幡神社を出た神輿が賎機山にある浅間神社の門前に行き、そこで流鏑馬が行われていたとのことです。

 昔は大谷川の河口に近かったと思われる箇所に安居神社(静岡八幡神社の記録によれば、安居神社は応神天皇の先祖と子孫を祀っていた。)があり、ここの祭日には浅間神社の神官達が大勢来て幣を奉げ、祭事を行うのは静岡八幡神社の神主達で、浅間神社の神主達に生シラスを盛った膳を出し供応したそうです。
 ということで、これらの神社の関係は何とも不思議です。

 さらに静岡八幡神社境内の日枝神社の解説文には京都の松尾大社と久能寺を秦氏で関連付けているのには驚きましたが、これは後裔の久野氏の足跡を追う上で重要な指摘かもしれません。

静岡八幡神社境内末社・日枝神社の解説文

 ウィキペディアの静岡浅間神社の項によれば、鎮座地の賤機山は静岡の地名発祥の地として知られ、古代より神聖な神奈備山として、この地方の人々の精神的支柱とされてきました。静岡市内には秦氏の氏寺である建穂寺や、秦久能建立と伝えられる久能寺が静岡浅間神社の別当寺とされ、その秦氏の祖神を賤機山に祀ったのがこの神社の発祥であるともいわれています。
 また境内には六世紀の賤機山古墳(国指定史跡)があり、この地方の豪族の墳墓であるとされていますとあり、どこまでが史実かは不明ですが、久能山の下に安居神社があることや、かつて久野氏が静岡浅間神社の神主だったので、この神々の路は、平安時代に静岡浅間神社が駿河の惣社に指定されて国司をはじめとする駿府の人々の崇拝を受け、また久能寺が静岡浅間神社の別当寺になった関係から、久野氏が久能の地から静岡浅間神社に進出していったルートと一致している可能性は否定できないと思われます。

 つまり、久能寺にはかつて鎮守社があり、有度権現を称する秦久能の黒袍衣冠の立像が安置されていたことや、康平5年(1062年)正月日の年紀をもつ十二所権現勧請札が残されていることからも、国司が面倒な駿河国内の神社巡拝を敬遠してもっと簡便なやり方として、国司の居住する国府に有名な神社を集めたり、有力な神社に他の神社を代表させてしまう惣社制度が確立する過程で、久能山の神官であった久野氏が安居神社→静岡八幡神社→静岡浅間神社と奉仕する神社を移っていったのかもしれません。

 最終的に静岡浅間神社の神官となった結果、国司との関係も深くなり、加木屋系図(分家)の項で書いたように長元4年(1031年)に久能季善が上総介平忠常の一味であると讒訴され伊豆に遠島になったというのも納得できるように思われます。
 すなわち、久能山の神官のままであれば国司の居る国府とは縁遠く、讒訴されるような災いは無かったものと考えられるからです。

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