駿河久野氏と奥州平泉

 久野(久能)氏は奥州平泉と浅からぬ関係があったようです。
 『清水市史』によれば、「文治五年(一一八九)に源頼朝は奥州藤原氏を征討し、藤原清衡の曾孫である樋爪次郎兼衡は捕らえられて駿河国に流された。兼衡は久能兵庫頭勝重の女と結婚し、御穂神社神主の太田家の祖になった。」とあります。

 また、『鎌倉遺文』二一五〇九号によれば、中尊寺経蔵別当朝賢が弘安年中(1278~88年)に彼の弟子であった遠江国久野四郎兵衛入道の子乙増丸に別当職を譲ることを約束し、別当職の由緒に関わる最も重要な文書である藤原清衡安堵状、源頼朝下文の他、代々の師資相承の証文が乙増丸に預けられたが、乙増丸はいかなる事情があったものか還俗してしまったために、別の人物に別当職を譲り渡すことにした、というものです。  
 その後、金色堂の横にある経蔵の別当職には、京都から下向して来た公家の五条為視(1291~1362年)の子である乙王丸が就任していることから、別当職は有力者の子弟が就く役職だったのかもしれません。

中尊寺経蔵

 さて「久能寺縁起」には十二世紀初頭と思われる出来事として、
「久能寺の源清僧正が五部大乗経を五度書写し誓願を立てながらも、法華経のみ書き残
して没した。源清僧正三十三回忌に奥州平泉に住む師忠という人物の八歳になる子供は久能寺別当の再来であるから、許しがあれば登山し法華経を書写したいと称しているとの情報が久能寺にもたらされた。久能寺側では源清の転生を確信して衆徒百人を奥州へ行かせ、その子を久能寺へ連れて帰り望みをかなえさせた。」ということが書かれてい
ます。

 このように久能山や久野氏と奥州平泉の関係は深いものがありますが、さらに奥州に関連した事項として、鎌倉時代の説話を集めた十三世紀の書物『古事談』と『十訓抄』の中には、平泉の藤原基衡の従者で信夫郡の大庄司(郡司)季春が中央から派遣された国司・陸奥守の藤原師綱に反逆し、打首にされたという話を載せていて、諸書では各種系図をもとに信夫庄司佐藤元治の父の出羽陸奥押領史・師綱(『群書系図部集』佐藤系図)か、または師治(『群書系図部集』結城系図)を季春ではないかとしています。
 各種の佐藤氏関連の系図を見ても季春の名は出てこず、信夫郡(福島市近辺)の豪族・佐藤氏が庄司を世襲していたであろうとの推測から、季春を佐藤一族とみなしたものと思われます。

 加木屋系図には弘安年中に登場する久野兼之のすぐ後に宮内太夫を称する久野季春が出てきます。
 この系図は系線が無いものがベースとなっているため親子関係は信用できませんが、この久野氏が「季」を通字としている年代が重要で、長元4年(1031年)の願書にでてくる久野季善から「季」の通字が始まっているとしますと、前記の信夫郡の大庄司(郡司)季春の事件が1135年頃ですから、久野季春の年代と合致している可能性があります。
 さらに、国司・陸奥守の藤原師綱は宮内卿でもありましたので、宮内太夫を称する久野季春の名前程度は以前から承知していたのかもしれません。
 以上のことから、信夫郡大庄司(郡司)季春=久野季春とすることは、行き過ぎた推測ではないように思われますが、本当のところはどうだったのでしょうか。

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