久能氏と駿河太田氏

 下の表は『駿河記』に掲載されている御穂神社神主の太田氏の歴代当主の事績を引用しました。『清水市史』によれば表は若干誤伝を記したもののようで、
1.比爪兼衡は師衡の子ではなく弟、
2.兼衡が太田を姓としたのは兄師衡の太田冠者によったもの、
3.兼衡自身は次郎と称し次男であったことは確か、
だそうです。

宗貞忠種宗忠兼衡師衡
号太田主殿頭。大永二年十月。神殿皆逢細川弾正忠孝範之兵火焼失。神主尽神忠払残党太田太郎。補三保之神官。依将軍常徳院義尚之命也。太田主殿頭。従五位下。依将軍頼嗣公命。而兼帯三保之神役与沖津之駅船司並清見之要関。与父同配所。三郎。建久元年娶駿河国久能兵庫頭勝重之女。同二年免配流一等之咎。直給三沢矢 部村松三保織戸一色等。任式部権少輔。叙従五位下。同三年源二位任征夷将軍之時。勤文仗之職。太田主殿頭太田冠者。文治五年九月。依泰衡之事而忘旧仇。而為源家致忠義。故処降人之列。被配於駿河国有度郡三沢浦。
御穂神社神主太田氏の歴代当主の事績(出典:『駿河記』)

 源頼朝の奥州征伐で駿河国に流された奥州藤原一族の比爪兼衡は、駿河武士の吉川(吉香)氏、渋河氏らの監視のとどく御穂神社に預けられたとされます。
 この『駿河記』の記述によると、建久元年(1190年)に兼衡は駿河国の久能兵庫頭勝重の女と結婚したそうですから、平安時代末の駿河に久能姓の武士がいたことは確かでしょう。
 また、兼衡の後裔が御穂神社の神主になれたのは、兼衡の妻の父である久能兵庫頭勝重か、またはその一族が静岡浅間神社の神主だったので、その力添えがあったものと思われます。

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