久野六太夫と広尾

 川口謙二著『書かれない郷土史 武蔵・相模を中心とした民族資料』には逗子の疱瘡神社が次のように紹介されています。

 京浜急行の神武寺駅下車一分。逗子市池子の鎮守神明社の本殿に向かって左側に、三つ四つの石神が並んでいる。この石神は風邪の神、耳だれの神で中央にある石神は真中から二つに割れているが、継ぎ合せると疱瘡守護神と書かれている。
 新編相模風土記には「疱瘡神社、新箸宮とも呼ぶ。毎年六月六日小豆粥をたき、新かやを以て箸をつくり、神前に供す云々」と書いている。この疱瘡神社を「疱瘡ばあ様」ともいう。

昭和2年の逗子町 部分(出典:HP「鎌倉のかくれ里」)


 治承元年(一一七七)七月源頼朝が三浦へ微行の途中、山越しの道に迷い、山中の農家に休んだ時、広尾という少女が急ぎ粟飯をたき、萱を切って箸とし、頼朝主従にすすめた。広尾の父、久野六太夫はその功により頼朝が幕府を開いた折、久野谷の名主に任ぜられ、広尾は頼朝の臣、柳川弥次郎に嫁したので、その記念にこの疱瘡神を建てたといい伝えている。今でこそ神明社の境内に合祀されているが、昔は鎌倉境の山の上にあり、旧海軍火薬庫建設用地(現在は駐留米軍用地)となるに及び合祀され、子供達の遊び道具となり、折損してしまったのは惜しい。

 また御所見直好著『鎌倉史話散歩』では流人頼朝の鎌倉潜入の項で六太夫、広尾関連の話が次のように紹介されています。

清和源氏の祖地
 これは頼朝が鎌倉に幕府を開く三年ばかり前のことで、あまり知られていない物語である。
 治承元年(一一七七)、頼朝は、従者に真田余一義忠と柳川弥二郎の二人をつれ、配所の地伊豆の蛭ヶ島を秘かに脱け出て、あとは陸路をとったか、船であったか、これは判らないが、そのとき三浦半島から鎌倉にかけて旅行をしている。
 (以下略)
杣家の美少女
 高い白雲は、すっかり秋を思わせるが、山のなかでは、まだ老蝉が思い出したように鳴いている午下がりである。頼朝主従は、峠を越えたあたりで、ようやく一軒の杣家にたどりついた。そこでカシの大樹に駒をつないだ。そのまま腰を下ろして、ひと休みしようとすると、垣根の奥からせわしい機織の音が聞こえてくる。
 思いなおした義忠は、粗朶を積み上げた軒端に近よって、「暫し憩わん縁先を貸し給え」と、汗をぬぐいながら声をかけた。すると機織の音がやんで、家のなかから明障子が開き、そこにひとりの少女がぬかずいた。
 「見苦しけれど入らせ給え」と、顔あからめながら静かに答えた。
 そこは遠く伊豆から駿河の山々、そして三浦半島、その眼下の青野には田越川(逗子市)が横たわる。
 踵を返せば、鎌倉の里を一望におさめる絶景の地である。
 ここでいっとき老蝉の声もやんでいた。ただ茂りのなかでしきりと鳴く山禽の鋭い声だけが、谷深くすわれてゆく。それがいっそうあたりを閑寂にしている。
 いつか少女は背戸に出て、飯をとぎ、竈に粗朶をくべて焚きはじめた。白い煙りが樹間に流れるころ、少女はひとつかみの藁と、手桶で清水を運んできた。
 水を馬にあてがうと、こんどは汗で毛を捩らせている馬の背から鞍をおろし、背や腹を藁でこすりはじめた。
 いましがたまで、機を織り、しとやかに縁にかしづいていた、その少女とも思えぬきびきびした仕ぐさである。背戸の竈の土鍋が、フツフツ音をたてながら粟の炊きあがりの甘い匂いがすると、少女は、庭の隅から萱の茎を切りとってきて、それでめいめいの箸を作った。
 やがて少女は、一椀の粟飯に、味噌漬けの山菜をそえて、頼朝主従にすすめた。
 つやのある萱の新箸と、道中、耐えてきた空腹には、甘い粟飯が、思わぬ兵糧の炊き出しのようだった。頼朝は遠い野戦のときの味が思い出されて、ふっと涙をかんだ。そして、従者と少女を前に、「これは幸先よいぞ、さても源家の吉瑞なるか」といって喜んだ。

源家の遺臣
 草深い里にはまれに見る美少女の、耐えかねたように義忠は、武骨な言葉で氏素姓をたずねた。
 「きこえ上ぐべき程の者ではございませぬ。父は久野谷六太夫と申し、わたしは機織の賎が女、こうして貧う暮らす父娘二人の日々・・・」羞らいながら答える少女の、その人品に見惚れながら聞く義忠は、ふと、床の間においてある「靭」(矢入れ具)と「轡」に目をとめた。
 「これぞ偲ばるる品々、いよいよ由緒あるであろう」と、かさねて義忠が少女に問いかけた。
 そこへ、薪木を背負って、片手に斧をさげた樵夫ふうの、不精にのばした髭面の中老人が近づいてきた。
 庭につないだ駒に、ただならぬ客と不審をいだいた中老人は、頼朝主従の前にくると、まず平伏した。
 そして、「伏屋の主人六太夫にて、山稼ぎの留守、娘広尾が不行届は赦さえ給え、いずかたより の貴賓に渡らせ給うぞ」、まさしく武家慣しの言葉である。
 義忠、「われらは田舎武士、山路に迷うて推参、きつうご息女を煩わしました」
六太夫、「お気に召さば、ゆるゆる休ませ給え」
 六太夫は、ここでようやく安堵した。が、義忠の靭と轡の問いには、六太夫は頑に口を閉じていた。
 それでもなお執拗に訊ねる義忠に、武辺の用具、問い糺されるも定めの理とあきらめてか、やがて顔をあげた六太夫は、「それがしは宿根賎しき里人にて、弱年のころ、駄馬をあつかい、いささかの心得をもち、源氏の御曹司義平殿の沼浜館(頼朝・義平の父義朝の屋敷があった-現在逗子市内、鎌倉時代沼浜と呼ばれていたが、いつのころからかハがぬけて沼間の呼称に転訛したと推測されている)に召されて御厩に相勤め、武蔵国大蔵合戦には御轡をとって御供も相勤めましたが、平治の乱のせつ(平治元年=一一五九)御上洛に臨み『余が再び下向の日を待て』と、この品拝領仕りました、しかるに御武運拙なく永久の御別れとなり、それがしは、またもとの杣人に返り・・・彼の品は殿の記念として貴く保存・・・」
 あとは嗚咽で言葉はきれた。
 かたわらでじっと眼頭をおさえ、これを聞いていた頼朝は、深く息をすると、平伏している六太夫の肩に手をかけて、「余は義平の弟、右兵衛佐頼朝であるぞ、汝が忠心肝に銘じた。末々まで忘れまいぞ」これを聞いた六太夫、頼朝の顔をあおぎ、地をすりながらさがり、あらためて平伏した。
 いつか娘広尾も、父の後について地に額をつけていた。

父娘との再会
 時移って、頼朝は鎌倉に大倉館を営み、ついで幕府を開く。大倉館からこの名越坂のすそまでは、いまならば車で十分、馬ならニ鞭か三鞭である。
 鎌倉におちついた頼朝は、かつての従者二人をつれて、わざわざ杣家をたずね、六太夫父娘に再会する。そしてまもなく六太夫は、頼朝のとりたてで久野谷の名主となった。
 また娘の広尾には、柳川弥二郎を婿にし、 頼朝はみずから媒酌をした。この弥二郎がのちの、つまり『吾妻鏡』建保元年(一二一三)四月ニ日の条にみえている「和田義盛が代官久野谷弥二郎」なのである。

新箸の宮
 後世、この里人たちが、この一家を記念するため山中に、一堂を建てて「新箸の宮」と名づけた。後、またどうしたわけか天然痘に効験あらたかという里説が生まれて「疱瘡神社」とも呼ばれた。
 つい近年まで、毎年七月二十六日には、この頼朝と久野谷の古事にちなんで萱の新箸を作り、これを膳にそなえるのが、このへん一帯の風習であった。
 しかし新箸の宮はいまはなく、土地の古老ですら確かな所在となるとつかめない。
 ただ頼朝主従と六太夫父娘の出会いの地点は、どうも物語の中にある景勝の地形からいって、名越切通しの、その周辺ではないか、ともいわれている。が、また 西南の披露山近くに「広尾坂」と呼ぶ地もある。
 あるいはこの地も娘広尾にちなんで名づけられた、とも考えられるが、これもはっきりしない。それに、当時の馬の通えた道となると、いまにわかに判断はできない。

 以上、引用が長くなりましたが、この話は逗子市域ではちょっと有名な伝説のように思えます。
 この話を総合しますと、久野六太夫が頼朝より久野谷(逗子市久木)の名主に任ぜられて久野谷六太夫と名乗り、娘婿の柳川弥二郎が後を継いで久野谷弥二(次) 郎を名乗ったということのようです。
 久野谷弥二郎の五輪塔は戦前まで堀之内地区にあったそうですが、現在は不明です。   

 「鳴海系図」の項で久野太郎俊仲が和田党ニ組シ戦死とあるのは、和田義盛の代官であった久野谷弥二(次) 郎と久野六太夫の関係から、一部の久野氏が和田方に付いたのでしょう。
 さて、久野六太夫が「弱年のころ、駄馬をあつかい」とあり、馬の産地ではないかとされる静岡市清水区駒越地区と縁がありそうなこと、また駿河の久能季善が相州で道心になったという加木屋系図の記述と、六太夫の活躍地が相模にあったことなどから、六太夫のルーツは駿河に求めることが出来るのではないかと思います。
 六太夫は、1155年に源義平が叔父の義賢を武蔵の大蔵館で破った時に参加しているそうですから、久野姓はそれ以前にあったということになりますので、和田合戦(1213年)の勲功により遠江国久野庄を賜り、以後久野氏を称したとする紀州藩久野家の家伝の内、久野氏が和田合戦に参加したというのは鳴海久野家の伝承からも事実と思われますが、勲功により遠江国久野庄を賜り、以後久野氏を称したとする部分は事実に反し、作文なのでしょう。

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