遠江国の鎌倉幕府御家人

 遠江国の鎌倉時代御家人名については、『吾妻鏡』建長2年(1250年)3月1日条の「閑院内裏造営雑事目録」では原左衛門(忠安)跡と浅羽人々(浅羽庄司ら)らが二条面南油小路北を分担しているが、久野氏は見られない。

 また、「六条八幡宮造営注文」(注:源義家が邸宅の一角に八幡神を勧請した邸内鎮守社を起源とする八幡宮)では、建治元年(1275年)の遠江国の御家人が表のとおり資金を供出しているが、ここには久野氏も原氏も見られない。

人 名貫文備考(日付は主に「吾妻鏡」)
野部介6磐田郡野辺郷=磐田郡豊岡村野辺敷地(分脈)南家工藤流
山名庄地頭等10山名郡山名庄=周智郡森町円田大城戸粟倉明神神主家
赤佐左右衛門跡5鹿玉郡赤狭郷=浜北市赤佐
井伊介跡3参考=建久6・3・10、寛元3・1・9
引佐郡井渭郷=引佐郡井伊ノ谷
平宇太郎跡4周智郡平宇郷=袋井市平宇(現在の下山梨付近)
佐野中務丞跡4佐野郡=掛川市
貫名左衛門入道跡5山名郡貫名郷=袋井市広岡上貫名・下貫名
西郷入道跡3佐野郡西郷庄=掛川市西郷
内田庄司跡5城飼郡内田庄=菊川町内田
東西谷五郎跡3山名郡=袋井市村松(医王山薬王院油山等)
六条八幡宮造営注文-遠江国関連(出典:静岡県森町HP)

 久野氏がどちらにも見られないのは特に驚くことではなく、久野宗仲の和田合戦の武勇とそれに伴い遠江国久野の地を給され、以後久野氏を称するようになったとする話は作文だと判断されるからです。

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