久能氏と長谷川長者

 長谷川長者とは静岡県焼津市域の土豪で、小川の地に住んでいたことから小川法永長者とも呼ばれ、文明3年(1471年)初見の長谷川政宣が知られます。
 今川竜王丸、後の今川氏親が家督争いに敗れた時に、この長谷川政宣が一時かくまっていたことがあります。

 政宣の孫の正長は徳川方に属し、三方が原の合戦で討ち死にしたとされています。藤原姓長谷川氏の系図の概略は次の通りですが、宣次の末裔に『鬼平犯科帳』の主人公である長谷川平蔵宣以がいます。
 島田代官の長谷川長盛やその父長久もこの長谷川氏の系統に連なると考えられますが、詳細は不明です。

藤原姓長谷川氏系図(出典:『駿河記』)

 また、今川義元が長谷川伊賀守元長に宛てた年不詳の書状に、現在の静岡市駿河区にある安養寺{今川範将(三郎、治部少輔)の菩提寺で、以前は藤枝市の長慶寺(今川泰範創建)の塔頭寺院であったが、その後今の静岡市に移転した。}の補修に関し、「補修は久野、河村両氏が指示することになっている。」という事が書かれていますので、両氏は寺社奉行のような立場だったのかもしれません。
 この河村氏は後に駿府で徳川義直に召し抱えられ、尾張藩の書物奉行になった河村氏の先祖かもしれません。

今川義元文書(出典:『戦国遺文 今川氏編第一巻』)

 さて、『駿河記』には前記の藤原姓の系図と共に清和源氏の流れとする長谷川氏の系図が載せられていますが、親子、兄弟関係がはっきりしないとされています。
 ただし、3代の貞冨の箇所には、「大治三年責土岐光信依其功給藤巴之紋」とあります。これは長谷川氏の家紋である左三藤巴の由緒が、右大臣藤原宗忠の日記『中右記』の大治3年(1128年)の項に、源光信の美濃の郎等が武者所殺害犯として逮捕、禁獄されたとあることから、この件で貞冨が源(号土岐)光信を咎めた功績によることと符合するのかもしれません。

 また、7代長易の箇所には、「建保二年依後鳥羽上皇之勅赴駿河国藤枝之駅討久能大膳太夫藤原定冨依其功給駿河国藤枝阿弁庄麻島瀬名郷終子孫住此」とあり、長谷川氏が藤枝に土着した訳が書かれています。
 長谷川長易が後鳥羽上皇の命令により藤枝まで来て久能定冨を討ったということですから、両者は京都において旧知の仲であった可能性があります。

源姓長谷川氏系図(出典:『駿河記』)

 久能定冨が後鳥羽上皇の逆鱗に触れて討たれるという事態になったという事ですが、平安末から鎌倉初期の僧であった文覚は神護寺復興を決意して承安3年(1173年)に後白河法皇に寄付を強要して伊豆に流されたそうですから、それよりも重大な事件を起こした可能性は否定出来ませんが、院政期の上皇は臣下をわずかな罪科で処罰したり、反対にさしたる功績がないのに栄典を与えたりするという気まぐれなふるまいがあったことが知られていますので、久能定冨が全面的に悪かったと言い切れないかもしれません。

 『駿河記』の両系図には、この長谷川氏は大和国長谷川(現在の奈良県田原本町法貴寺と考えられ、近くに秦庄の地名も存在する。)に居住していたと書かれています。
 異説はあるものの、崇神天皇六年に宮中に奉祀していた天照大神を移し、豊鍬入姫命に託して祀らせた笠縫邑はこの田原本町に比定されます。

 大和岩雄著『秦氏の研究』によれば、金春禅竹の『明宿集』からの引用で、「秦河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。」とありますから、同じく秦河勝の後裔を称する久能氏とは同族であったのかもしれません。

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