一万首和歌作者の久野氏

 井上宗雄著『中世歌壇史の研究 南北朝期』に掲載されている水戸市にある彰考館に所蔵の「一万首和歌作者」から武士のみを拾ってみましたが、時代的には貞治3、4年(1364、65年)の作とされています。

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 この表の久野三郎左衛門入道と久野下総守がどこに住んでいたのかですが、三郎左衛門は駿河の久野氏がよく使う通称ですので、今川範氏、泰範父子が住んでいた藤枝市花倉の可能性が高いと思われます。また、下総守は宗明を称しているので、宗を通字とする遠江の久野氏一族と考えられ、掛川市域に住んでいたのでしょう。

 久野三郎左衛門を称する人物の実名は不明ですが、法名の蓮阿は高野山奥の院参道にある銘「為禅尼上智聖霊、奉造立沙弥蓮阿、永和元年(1375年)乙卯七月日」の碑との関連を想像させます。

高野山奥の院の参道にある禅
尼上智碑(出典:『和歌山県の文化財 第一巻』)

 また時代は遡りますが、元徳3年(1331年)の原忠益注進状の細谷郷(掛川市域)庶子分田数事に蓮阿跡とあり、最初の所有者である蓮阿の名で呼ばれていますので生存年代は確定できませんが、弘安4年(1281年)に藤枝市域の青山八幡宮に鐘を奉納した大檀那の沙弥蓮阿と細谷郷に所領を有していた蓮阿は同一人物で、姻戚関係にあった原氏の所領を分割相続した久野氏の一族であり、代々蓮阿を称していたのかもしれません。

 さて、奥州の藤原基衡の弟清綱の長男俊衡が比爪(樋爪)の名字を称し、法名は蓮阿です(『姓氏家系大辞典』)。
 また基衡の父の藤原清衡を清平とする系図があり(野口実著『武家の棟梁の条件』)、一方加木屋系図では江戸時代の当主も代々清兵衛を名乗っていますが、一人だけ清平を名乗っている人物が見えます。
 つまり、清衡→清平→清兵衛と名前が移り変わってきたのかもしれません。
 また、加木屋久野家の分家に『万日記』を残した半平を称する人物がみえますが、清平の名前があってこその半平ではないかと思われます。
 これらのことから、久野氏は奥州藤原氏の影響を色濃く受けていたと考えられますし、御穂神社神主の太田氏系図に記載の「久能兵庫頭勝重の娘は駿河に流された藤原清衡の曾孫樋爪次郎兼衡に嫁し」という内容も史実だったのではないでしょうか。

 さて、高野山でも修行した頓阿の『続草庵集』の中に冷泉宰相(冷泉為秀 ~1372年)が蓮阿の庵室で詠んだ二首の和歌があり、内容は次の通りです。

      蓮阿庵室にて冷泉宰相歌よまれしに、花友
   七二 昔みし友をばいとふ山里も花ゆゑ人になるる春かな  
        蓮阿庵室にて冷泉宰相歌よまれしに、神祇
   四八九 猶まもれ今も神代の名残とてさすがにたえぬ敷島の道 」

 この和歌は冷泉為秀が京都と鎌倉を行き来している時に蓮阿が住んでいた藤枝市花倉で詠んだものと思われます。
 「久能氏と長谷川長者」の項で出てくる久能大膳太夫藤原定冨も藤枝周辺に住んでいたことを考えますと、藤枝は久野(久能)氏にとって縁のある土地だったのではないでしょうか。

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