セイベイ屋敷跡

 静岡県榛原郡川根本町の小澤さん発行の『中川根ふる里通信第十四号』に地元の杉山さんの話として、少し面白い名前で「セイベイ屋敷跡」という地名があったことが紹介されています。

 場所は駿河と遠江の境目である大井川上流で、南北朝時代に南朝方の土岐彦太郎(美濃守護土岐頼貞の長男頼直の子である可能性がある。頼直は小太郎を称しており、その子を彦太郎とするのは命名の観点から有りえる話である。)の居城があった駿河無双連山(むそれやま)に在る徳山城の蔵屋敷南端のナゲを谷頭として、壱町河内に至る長さ二千㍍の谷地の一角にあった寺沢村の近くの寺ノ沢付近です。寺沢村には土岐氏の時代に三十五戸の人家と寺院があったと言われていますが、現在は何も残っていません。

徳山城周辺の城分布図(出典:『静岡県史通史編2中世』)

 この徳山城に立てこもる土岐氏を今川範氏が攻めて正平8年(1353年)に陥落させますが、なんと加木屋系図によれば26代久野清兵衛義尭が今川範氏に仕えていたと書かれていますので、セイベイとは久野清兵衛義尭のことでしょう。

 義尭はこの屋敷に住み、再度南朝方が徳山城へ入城しないよう守備していた可能性が考えられます。また徳山城の南の尾根を下ると久野(ひさの)の地があり、その東約5.4kmの所には久能尾(きゅうのお)の地があります。これら二箇所の地も久野氏が守備していた可能性があり、この地名に因み、久野と書いて「ひさの」、「きゅうの」と読む氏がいらっしゃるのかもしれません。
 永禄11年12月21日に徳川家康が久野宗能と一門同心衆に宛てた安堵状には「土気」の地名が記載されており、土気=土岐であることから、これは久野氏がこのセイベイ屋敷跡付近の土岐氏のかつての支配地を後に領有していた可能性が考えられます。

 今川範氏は文和2年(1353年)に藤枝市域の花倉に居館を構え、その後花倉は氏家、泰範、範政と、応永18年(1411年)に範政が駿府へ移るまで今川氏の本拠地として栄えますが、この花倉にも今川有力家臣団の松井屋敷跡、矢部屋敷跡、大楊屋敷跡、左近屋敷跡の地名が残っているのも興味深いものがあります。

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