今川範忠判物にみえる久野氏

 近世旗本七百家に伝来する古文書二千四百通を家別に収録した近世初期の貴重な基本資料である『記録御用所本古文書』には次の「今川範忠判物」が掲載されています。

今川範忠判物

去ル九日、其城蒲原一揆相囲之処、早速退治之、殊大明・高山玄光・由井左源太被討取之旨、到来、無比類御高名、無申計候、仍而太刀一腰守家、進之候、猶、久野可申也、
                         正月十一日                    範忠御判    
      牟礼但馬守殿 

 内容は、一揆が静岡市清水区の蒲原城を囲んだ時、牟礼但馬守範里が敵の大将高山玄光・由比左源太を討ち取り、その活躍に褒美として太刀を与える、詳しくは久野が述べるであろう、ということです。
 時は永享11年(1439年)のことと推察されます。ここに登場する牟礼氏は『寛政重修諸家譜』によれば名字の地を讃岐国牟礼とし、初代貞高の項では「今川伊予守貞世に属し、筑前国世振山合戦のとき軍功をはげまし、駿河国蒲原の城代となる。のち7代勝利にいたるまで代々この城に住し、今川上総介範忠あるいは足利左馬頭政智より感状をあたへらる。妻は今川伊予守貞世が女。」とあり、代々今川家に仕え7代勝利は氏真、8代勝成は徳川家康に仕えた家です。

 この文書を発した今川範忠は今川家7代当主ですから、初代貞高に対して『寛政重修諸家譜』に記述されているように「今川上総介範忠あるいは足利左馬頭政智より感状をあたへらる」の文章は誤解を招く記述で、この『記録御用所本古文書』では今川範忠から貞高の嫡男で但馬守を称する範里に宛てたものとなっており、また堀越公方の足利政智(知)と牟礼氏との主従関係は確認されていません。
 今川氏、牟礼氏、久野氏の同世代と思われる人物を表で示すと次のようになります。

今川氏範氏
義忠氏親義元氏真
牟礼氏範重勝重勝利
久野氏季義義尭之良尭季胤季郡季季之栄邑

 牟礼氏は四代にわたって今川氏から偏諱を授けられているようで、家臣団の中でも重用されていたのではないかと考えられます。

 判物に記された「猶、久野可申也」より、今川範忠(1408年~1461年)の側近の久野氏{加木屋系図(本家)では久野胤季の箇所に範忠と注記がありますので、この胤季が考えられる。}が副状をしたため、判物と一緒に牟礼氏に出したということでしょう。
 このことから、15世紀中頃には既に久野氏は今川氏近臣として活躍し、今川家2代の基氏から義元まで仕えていたと言う加木屋久野家の伝承は、この古文書からも信憑性を増したと言えるのかもしれません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA