桶狭間の合戦と久野(久能)氏

 下の表は『駿河志料』に所収の「桶狭間殉死の士」から引用しました。
 また明治31年に陸軍参謀本部編として刊行された『日本戦史 桶狭間役』では今川方として討ち死にした人物として久能半内氏忠が、また今川方として討ち死にしなかった人物として久野弾正(実名は不詳)がリストアップされており、久野(久能)氏関連ではこの二人だけが確認できます。

蒲原宮内少輔氏政義元の叔父久能半内氏忠義元の甥
浅井小四郎政敏義元の妹婿三浦左馬介義就駿河旗頭
庵原美作守元政旗奉行吉田武蔵守氏好軍奉行
葛山播磨守長嘉後陣旗頭葛山安房守元清
江尻民部親良今川一族伊豆権守元利槍奉行
岡部甲斐守長定左備侍大将藤枝伊賀守氏秋前備侍大将
朝比奈主計介秀詮先陣大将斎藤掃部介利澄
庵原右近忠春庵原将監忠縁
庵原彦次郎忠良牟礼主水泰慶
富塚修理亮元繁四宮右衛門佐光匡
温井内蔵介実雅由比美作守正信
石川新左衛門康盛関口越中守親将(実は氏経)
井伊信濃守直盛 島田左京進将近 
飯尾豊前守顯茲(実は乗連、討死せず)澤田長門守忠頼 
岡崎十兵衛忠実 上和田雲平光範(二和田か?)
金井主馬介忠宗 平山十之丞為行(千之丞か?)
長瀬吉兵衛長行 平川左兵衛秋弘 
福平主税忠重 松井五郎八宗信 
富永伯耆守氏繁 山田新右衛門忠死す
松平摂津守維信 松平兵部親将 
長澤松平上野介政忠 長澤松平五郎兵衛忠良(政忠弟)
瀧脇松平喜平次宗次 加藤甚五兵衛景秀 
西郷内蔵介俊雄(又は俊員)  
( )内は筆者が追記

 この表で久能半内氏忠が義元の甥となっているのは『改正三河後風土記』でも同じですが、氏忠が岸和田系図に出てくる久能半内宗衡の子であるなら、宗衡が駿河江尻城主とされていますから、氏忠も同様に江尻城主ではないかと考えられます。
 ただ表には今川一族・江尻民部親良なる人物もいますから、江尻民部と久能半内氏忠の両者の関係がどのようなものであったのかを解明するのが今後の課題のようです。
 愛知県西尾市岩瀬文庫所蔵の『諸国百家系図』に収められている「駿河由比系図」の美作守正信の項にもこの表と似たものが書き込まれ、名前は久野半内氏忠となっています。

 久能半内氏忠がはたして今川義元の甥であったのかはそのように記載した確たる史料も無く疑問ですが、今川義元は家臣の遠江の国人領主である井伊直平の娘を側室としていたが、後に自分の妹という形にして関口氏広に嫁がせたそうですから(小和田哲男著『今川義元』)、この例と同じように遠州久野家から駿河久能家に養子に入った久能半内宗衡と、後に義元の妹身分とされた女性との間の子が久能半内氏忠であったことから甥と称していたのかもしれません。

 また「岸和田藩久野家文書」によれば、久野氏で討死した人物としては、久野三郎四郎宗経と久野三郎太郎元宗の二人がいます。
 「紀州藩久野家文書」によれば元宗は三郎太郎ではなく三郎四郎となっていますが、紀州藩家老久野家先祖の久野宗能は桶狭間の合戦後に久野城主の久野三郎四郎宗経家を継承しているので、宗能の兄である元宗と久野城主の宗経の通称を混同したのでしょう。
 その「紀州藩久野家文書」によれば、三郎四郎元宗は織田方の先陣を切った一人である熱田神宮大宮司の千秋加賀守季忠を討ち取ったとされていますが、元宗自身は今川義元の近臣であり後方にいたため織田方の先陣と戦うのは不可能で、今川軍前軍の松井宗信隊にいたと思われる遠江久野城主の宗経が千秋季忠を討取り、この武勇の話が久野宗経家から宗能に伝わり、「紀州藩久野家文書」にこの事が記載されたのではないかと考えます。
 千秋季忠を討ち取った場所は明記されていませんが、地元郷土誌によれば現在の国道一号線沿いに地名の残る名古屋市緑区鳴海町の「母呂後」で千秋季忠の遺体を乗せた馬が目撃されたとの記録もありますが、太田輝夫著『桶狭間合戦 奇襲の真実』によれば、戦った場所は信長が戦死者を葬るよう村人に命じた七ツ塚とされ、七ツ塚で千秋四郎季忠が討ち取られたとしています。

桶狭間合戦戦場地図(出典:『桶狭間合戦 奇襲の真実』)

 また永禄3年(1560年)の桶狭間合戦に参加した人物には久野栄邑(加木屋久野家初代)がおり、栄邑は合戦後に一族の久野之永を頼って常滑市の大野に落ち延び、その後加木屋に来住したとされています。

 ここで余談ながら巷では桶狭間の合戦で今川義元を討ち取った信長軍の進撃ルートがいわゆる「正面攻撃」によるものだったのか、それとも「迂回奇襲」によるものだったのかについて未だに論争が続いていますが、これは最も信頼がおけるとされる『信長公記』でも中島砦から義元本陣までの信長の進軍ルートが書かれていないことが原因のようです。

 これについては『久野城物語り』の紀州藩久野家の項で、

「永禄三年(一五六〇)年庚申五月今川義元、駿州・遠州・参州三ヶ国の人数を引つれ尾州へ攻め入る。織田上総介信長わずかに三千余りの兵を以て境目に防戦する。
 義元先勢、岡部丹波守真綱、久野三郎四郎元宗、朝比奈備中守泰国並びに松平蔵人元康、小原肥前守為繁等諸郷より攻め入り、大高・棒山・鷲津・丸根・南部・梅坪・挙呂茂・丹下・中島・善照寺数箇所の城残らず落とし去る。
 その時、久野三郎四郎元宗、善照寺城へ取り掛かるべきところへ、清洲城より逆寄せに攻め来たりと注進あるも、その節にわかに雷雲おびただしく、山野も海上も霧深く全く見分けがつき難いところへ、信長の先手、千秋紀伊守押し寄せ、久野三郎四郎人数と合戦を始める。
 三郎四郎まっさきに乗り込み、千秋紀伊守を討ち取り信長先勢を追いまくり、千秋の首を持って義元本陣桶狭間田楽の窪へ参る。
 義元が幕を打ち居られるところへ、久野三郎四郎参り、千秋の首を実見に入れている所に、信長は浜手に廻り沓掛峠より、義元本陣へ不意に取り掛かれば、義元の旗本上を下へに返し騒動する。
 その時久野三郎四郎元宗急いで駆け出すに、五本しないの御指物、幕の物見に引っ掛かり倒れるところを信長勢折り重なり、久野三郎四郎元宗討死する。」


とあり、この内容を全面的に信じることは出来ませんが、もしこの記述通りなら信長は中島砦から東へ移動し、鎌倉街道を通り沓掛峠から義元本陣へ迫っていったものと解釈されます。

 橋場日月著『新説桶狭間合戦』によれば、『足利季世記』が「(信長の)伏兵起こりて」義元本陣を襲ったといい、また京都醍醐寺の僧の日記『厳助大僧正記』も「織田弾正忠武略を回しこれを討ち取るの事」と書き留め、信長が何らかの奇策、謀略を用いたとしており、「正面攻撃」説を採用するのは難しいのではないでしょうか。
 また、中島砦から手越川を渡り今川軍の前軍が布陣する山側伝いに進軍する道(現在の国道1号相当)は明治24年の段階でも存在しませんので、正面攻撃は物理的に不可能と考えます。
 この山際の山とは前出の『桶狭間合戦 奇襲の真実』が示すとおり坊主山でなくてはならず、ここから山道を通り太子ケ根・大将ケ根の近くまで進軍していったと考えた方が妥当なように思われます。
 また、佐々木氏郷編著『江源武鑑』によれば、近江守護佐々木六角氏から信長方に援軍が送られた関係から桶狭間の合戦の事が記載されており、ここには、

「織田家利ヲ失フニ依テ諸将ニ向テ曰今夜今川家陣取タル山ノ後ニマワリ夜討ニスヘキヨシヲ云何モ此義ニ同ス味方二備ニ成テ旗腰シルシ等ヲステ馬ノクツワニ紙ヲ巻味方ノ軍卒不残甲ヲサシヲキ行トイヘハ進ムト云合言葉ヲ定メヲケハザマノ山ノ後ニ登リ十九日子剋ニ義元本陣ニキリカカリ味方大利ナリ」

とあり、一般に『江源武鑑』は偽書ではないかとされていますが、ここでも迂回して行った事が想像されますので、「迂回奇襲」説の方が有力ではないかと思われます。

 また、義元が討ち取られた時刻が『信長公記』では未の刻(午後二時頃)となっていますが、『江源武鑑』では子の刻(午前零時頃)となっており、信長方が圧倒的に少ない兵力で勝利した事を考えますと、『江源武鑑』のいう信長方の夜討ちの可能性は皆無ではありません。しかしながら今川方には桶狭間から大高城入城までには十分過ぎる時間があったはずですから、桶狭間で宿泊したと考えるのはちょっと疑問が残ります。

 むしろ全員が甲を脱いで義元本陣に突入していったという内容に注目すれば、『甲陽軍鑑』に書かれている、

「信長二十七の御歳、人数七百計にて、義元公の人数二万計にて出給ふを、見きりをよくして、駿河勢の諸方へ乱取にちりたる間に、味方のように入まじり、義元公、三川の国の出家衆と、路次のわき、松原にて、「敵ハなきぞ」とて、酒盛してまします所へ、切りかかりて、則、信長公のうちかつて、義元の御くびを取給ふ。」

という内容に信憑性があるのかもしれません。
 織田軍の進軍ルート近くに「鎧掛松」という信長(ら?)の鎧を掛けたとされる松があったとの言い伝えがあり、これは戦闘部隊ではないことを印象付けるために鎧を脱いだ場所とも考えられ、また先に紹介した『桶狭間合戦 奇襲の真実』では、千秋紀伊守と共に信長方の先陣を務め討ち死にした佐々隼人正を信長と思わせ、今川方を油断させたのではないかとされており、『信長公記』に中島砦から義元本陣までの進軍ルートが書かれていない理由は、著者の太田牛一がこのような信長の作戦行動を記述するのは主君の評価を下げると判断した結果かもしれません。

 以上をまとめると本合戦は大筋で次のような状況であったと推理されます。
・信長は中島砦よりそのまま東海道を進軍したのではなく、坊主山の北を通り、太子ケ根・大将ケ根の近くで下りて、鎧・甲を脱いだ後に駆け上がり今川義元本陣の西に着陣した。
・先発隊の佐々隼人正や千秋紀伊守はほぼ信長と同じルートで進軍し、七ツ塚で義元先陣と戦い討ち死にする。
・討ち取った佐々隼人正を信長と勘違いした今川勢は警戒を解き酒盛りをしたり、一部の者は乱取りに出かけた。
・そのような時に、信長本隊は今川勢のようなふりをして田楽狭間の義元本陣に近づき、ついに首級を上げ勝利した。

 ところが、江戸時代の地誌『三河後風土記正説大全』(徳川家康家臣の平岩親吉の原本に対して江戸の兵学家であった神田白龍子が改撰したとされる)ではちょっと違った話になっています。
 その概略は次のようです。
・笠寺の東より間道を通行し、善照寺より東の山際にて信長ら総勢五千余人が集結。
・ここで信長は佐々隼人介、千秋四郎に不意討ちの謀略を伝え、佐々ら三千五百余人は雨風の中を進軍し軍兵を山林に隠す。
・今川軍は大風雨のため桶狭間に逗留、翌二十日午前二時に風雨がやみ、夜明け前に佐々らは下知して今川軍第一の先手葛山播磨守、同備中守、富永伯耆守等が一万余人にて備えたる瀬山の際の陣所に押し寄せ不意討ちするが、佐々隼人介、千秋四郎、岩室長門守らが戦死する。
・佐々らの合戦の様子を声や鉄砲の音で確認した信長本隊は千五百余人を三手に分けて今川義元本陣の後ろに回り、風雨が激しい中を油断している今川本陣を不意討ちする。
・今川本陣には前軍の応援に出たものが多数おり、わずか五百人ばかりで信長本隊と戦うことになったが、今川軍に風雨が強く吹きかかることも手伝い指揮命令系統が乱れ、大将の義元が狙い討ちにされた。

 以上のように詳しく合戦の様子が記述されている訳ですが、信長ら総勢が集結した「善照寺より東の山」とは坊主山のことと思われ、今川軍第一の先手がいた「瀬山」とはハイ山(背山?)のことではないかと推測されますので、前述の推理との大きな違いは信長本隊が今川義元の本陣の後ろに回った事と、天候を味方に付けたこと位ですから、『信長公記』のみを根拠にした信長軍の「正面攻撃」の可能性は非常に低く、「迂回奇襲」が真実だったのではないでしょうか。

 さて、合戦の結果には直結しない話ですが、天理本『信長公記』には、「丸根山ニハ佐久間大学入置鷲津山ニハ飯尾近江守同隠岐守織田玄蕃大高之南大野小河衆被置」とあり、これは大野衆が氷上砦(大高城の西約1.4kmの斎山稲荷社付近か?)を守備していたのではないかと考えられており、今川氏の大野城周辺の支配を潔しとしない一派が信長に呼応して氷上砦で合戦の様子を見守っていたのかもしれません。

 このことから想像を巡らせますと、「加木屋系図(本家)」の項で書いたように久野栄邑は合戦後に桶狭間から大野に直接逃げ込んだ可能性はあるものの、系図で大高村の牧野伝蔵との関係が書かれているのは、一旦大高城から大高の氷上砦に逃げ込み、さらに大野に移った事を示唆している可能性があります。

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