遠江久野家の永禄騒動

1. 永禄12年(1569年)1月に起きたいわゆる遠州久野家の永禄騒動には諸説がありますが、この事件が記録されている書物の中で最も信頼がおけると思われる江戸時代の地誌『三河後風土記正説大全』をベースに、この時既に徳川方の不意討ちにより亡くなっていた淡路守宗益と、宗益の子で宗益討ち死に時に武田方へ走り、久野城にはいなかった日向守宗一の二人を永禄騒動に登場させる訳にはいかないので修正を加えて表にしてみました。

関係人物久野方・八右衛門宗明(宗能父、諸書では宗能の老臣または家礼と
 誤解)
・三郎左衛門宗能
・佐渡守定憲(宗能伯父、諸書では宗憲と誤解)
・弾正忠宗政(宗能従弟)
・采女宗当
・某(宗能弟、諸書では前年討死した淡路守宗益と誤解)  
・将監祐憲(宗政父)
・本間十右衛門政季
・千菊丸(宗能長男)
徳川方・榊原康政
・三宅康貞
・菅沼定盈
・松平忠正
今川方・川井与四郎
場所遠江久野城、他
あらすじ徳川家康が掛川城の今川氏真を攻撃時、今川氏真の使いである川井与四郎が久野宗明の家に来て寝返るよう勧める。宗明は一族従者を呼び集め同意を取り付ける。この時病気で出席していなかった宗能に対し再度出席を求め、宗明が宗能の同意を取り付けた。
しかしながら宗能は定憲、本間政季を呼び謀議をとがめた上で家康方に援軍を求め、宗明に加担した宗能弟某は討取られ、宗明は川根本町方面へ逃げ、宗政、宗当は追放処分となる。
のちに、宗能は家康に人質として長男千菊丸を差し出す。
遠江久野家の永禄騒動概要

2.『三河物語』などとは随分違った内容が真相のような気がしますし、宗益と宗一が騒動に係わったとする内容は、不意討ちを覆い隠すための作り話のようにも思えます。
 『三河物語』では、久野佐渡、同日向、同弾正、同淡路、本間十右衛門が家康を討取ろうと談合し、その旨を三郎左衛門宗能に伝えたが同意が得られず、邪魔な三郎左衛門に腹を切らせ淡路を惣領にしようと企んだ。しかし久野佐渡と本間十右衛門が三郎左衛門に注進し、三郎左衛門は家康に援軍を求めたために騒動は失敗し首謀者であった淡路には腹を切らせ、弾正は追放処分にしたとあります。


3.また『譜牒余録』前編巻第五十六、三宅土佐守の項では、「三宅惣右衛門大勢トシテ出張、則久野淡路・同采女ヲ令切腹、弾正助命、懸川城エ送ル、久野千菊丸ヲ人質ニ取岡崎エ送ル、此時参州高橋衆、東吉良衆ヲ与力ニ被 仰付」とありますが、どちらも多分に誤伝が記されているようです。
 さて、ここでなぜ宗能は定憲をとがめたのかですが、久野城主の久野三郎四郎宗経が桶狭間の合戦で討ち死に後に宗能が還俗して宗経の家を継いだことから、宗経の父定憲は宗能の義父になるからだと思われます。
 「紀州藩久野家文書」では宗能兄が久野城主の三郎四郎元宗と言われていますが、これは岸和田藩家老久野家文書をみれば三郎四郎と元宗は別人であることが分かりますし、岸和田系図からも元宗が久野城主でなかったことは明白です。


4.この騒動の主役は宗能の父である宗明であり、宗能の弟を城主にしたかったのかもしれませんが、徳川方に一族離反の謀議を報せ家康へ忠を尽くしていながらも、前年家康より所領を宛行われていた宗能の長男、千菊丸を騒動後に人質に出さざるを得なかったのは、宗能一族が騒動に深く係わっていたからだと思われます。
 騒動から半年以上たった永禄12年8月28日に家康から久野淡路守宗益、弾正忠宗政、采女宗当の三名の所領が宗能に宛行われ、最終的に騒動の処理が完了したようです。

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