久野宗政とその周辺

 

 遠州出身の久野宗政が関連すると思われる記事を各種資料から集めて表にしてみました。

1560年5月桶狭間の合戦に参加した今川方将士に久野弾正あり。
1569年1月久野家の永禄騒動の関係者として弾正(宗政)の名前あり。
1569年4月北条氏康が駿州へ討入り時、今川家の譜代小倉内蔵介、森川
日向守、久野弾正(宗政)等に謁見し、氏康は本領を与えて
駿府の焼跡にさし置いた。
1569年8月徳川家康より久野淡路守宗益、弾正、采女の所領が宗能に宛
行われる。
1569年12月修理途中の駿府城を守る将士の岡部正綱、長秋兄弟、久野弾
正忠宗政、安部元真、酒井極之助実明らは武田信玄の軍に攻
められ降参した。
1573年3月天方城を平岩親吉が攻めた時、城主天方通興に加勢して久野
弾正宗政が守備していたが、城主通興は降参し、弾正は甲州
に逃げ去った。
1573年6月信玄、家康と遠州取り合いの時、甲州方武田兵庫、高坂弾正
と共に久野衆が二俣城を守備していた。  
この時の久野衆には日向守宗一、弾正(宗政)、采女、市兵
衛、作兵衛、監物あり。(監物とは宗政長男吉政のことで、
上州忍で松平忠吉に召し出され、その後忠吉に従い尾張清洲
へ、さらに徳川義直に従い名古屋の尾張藩へ。
また、市兵衛は紀州藩家老久野宗成に従い初代の三重・田丸
城代家老になっており、作兵衛も宗成に従い田丸に入部して
いる。)
久野宗政関連事項のまとめ

 愛知県東海市の加木屋本郷熊野神社の創建については「熊野神社しおり」には、「永禄三年五月(一五六〇)今川の家臣であった久野清兵衛宗政が駿州久能山を出る時阿弥陀・薬師・観音の三尊を所持していたが、加木屋村に足をとどめた宗政はこの観音を氏神神体として当時、宗政の家屋の戌亥に当って氏神本社があったが、この森へ移し奉り御除地に願って熊野之社宮と崇め奉る。」と書かれています。
 これは由来を作成した人物が宗政は駿河久野家の一族であると勘違いして書かれたようです。 

 加木屋系図では「宗」の字を名乗る人物は20代宗季のみであり、また宗政とその関係者の没年を整理してみれば、加木屋2代の宗政なる人物は遠州の出身であったのは確かです。 
・宗能(1609年没)宗政従兄、遠州久野城主
・宗政(1618年没)
・維永(1631年没)宗能長男与次郎貞宗(別名:維宗)の子、加木屋久野家3代
・吉政(1640年没)宗政長男、尾張藩久野家初代で遠州出身を称す。

 宗政の姻戚関係で興味深い事項が青山氏(後に大名、老中となる。)の系図に書かれています。


 愛知県西尾市岩瀬文庫所蔵の「改選諸家系譜」と『寛永諸家系図伝』で内容が違いますが、「改選諸家系譜」の青山忠成の娘の項に久野弾正忠宗光の名が出てきており(宗光とは宗政の別名)、宗政の妻が青山忠成に再嫁し、後に宗光院を称しています。  
 その後、青山忠成は天方通興の娘と結婚したようですが、越前松平家に仕えた天方氏の系図によれば、宗政も天方通興の娘を妻にしていますから、この青山=天方=久野の結びつきは宗政が武田方として天方城の守備を加勢していたことが起点と思われ、武田方となっていた久野衆が武田家滅亡後に青山忠成の配下になったようで、武士の再仕官はあらゆる縁を利用して行われたと言えるでしょう。

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