駿河久能城址見取図

 下の図は、以前静岡市に住んでおられた沼館愛三氏が作成された久能城址見取図です。

  一ノ門付近が標高約120m、最北の愛宕郭が標高219mで、東西最広が150m、南北約400m、二ノ丸址幅5mの南北に細長く小高い塁上に久能祠(久能神社)がありますが久能祠は図には描かれていません。

 また図の範囲外ですが、愛宕郭より北約200m、標高250mの地点におよそ20m四方の平坦地があり、これを豆腐山(高角山)出丸と称し、有度山方面からの敵の侵入を阻止する要害の地となっていましたが、慶長12年(1607年)に徳川家康は愛宕郭と豆腐山出丸の間の尾根を掘割り、通行出来なくしたそうです。
 この有度山方面から久能城へのルートは昔の参道であり、また久能寺へ逃げ込む通路でもありましたので、要害の地と伝えられてはいますが、案外攻め込むには容易な経路であったのかもしれません。

 さて、最北の愛宕祠、その横の稲荷祠と久能祠の関連事項としては、京都の嵯峨野秦氏の本拠地である太秦の西北に位置する愛宕山は、秦氏の山岳信仰の対象になった聖山ですし、深草秦氏の本拠地にある伏見稲荷神社は秦氏が祭祀する神社です。
 また、秦氏が歴代の神主となって奉仕した京都松尾大社には大山咋神と中津島姫命(別名・市杵島姫命)が祭られており、この市杵島姫命は宗像大社の祭神でもあり、古事記には宗像大社の中津宮に市寸島比売命が祭られていると書かれていますので、松尾大社は宗像大社の中津宮(福岡県宗像市大島)とも深い関係があったものと思われます。
 さらに久能祠に祭られている秦久能は一時期筑紫大島に住んでいたと加木屋系図に書かれていますので、秦久能は松尾大社の口添えもあり宗像大社の中津宮に神官として奉仕していたのかもしれません。尚、現在の宗像大社の中津宮には湍津姫命が、また辺津宮には市杵島姫命が祭られており、いつ入れ替わったのかは分かりません。

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