久野清兵衛栄邑は駿河浅間神社の神主だったのか

 小和田哲男著『今川氏の研究』という本に天正十五年三月七日付の「新宮神主浅間社領屋敷銭書上ゲ」と題する文書が紹介され、この文書の記録によれば年月の最後に「此帳ハ天正十四戌年府城修築ニ依テ上地セシ時ノ記ナリ御曲輪又武家邸トナレリ」と注記があります。

 これは駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五カ国の大名になった徳川家康が、居城を浜松から駿府に移し、五カ国の大名にふさわしい巨大な城を築こうとした折、浅間神社領の一部を城地および武家屋敷のために差し出させた時の土地目録であると解説されています。
 この中に久野氏の屋敷が二つありました。
・あんさい町久野御やしきニ入
  四百文          兵部次郎
・宮のさき久野御やしきニ入
  五十文          清兵衛
 それぞれ、久野兵部次郎と久野清兵衛の住居であったようですが、場所は現在の静岡市葵区安西と宮ケ崎町で、駿府城跡の外にある地名ですから、家康の時代には武家屋敷になったようです。

 また、大久保俊昭著『戦国期今川氏の領域と支配』という本には今川氏が流鏑馬奉行の村岡氏に発給した静岡浅間神社の流鏑馬関係史料が解説され、流鏑馬銭の賦課された土地として五十ヵ所が確認されており、この中には郷名や庄名の他に個人の名字を冠したと思われる勝路田(〇・六貫)と久野田(〇・三貫)が見られます。
 勝路は勝呂ではないかと思われ、『姓氏家系大辞典』では勝呂は村主に通じるそうですから、この勝路とは静岡浅間神社神主の村主氏のことではないかと思われ、また久野田は久野氏の所有する土地と思われます。
 五十ヵ所の地名の多くが静岡市と藤枝市にあることから、久野田は久野氏に縁の深い藤枝市にあった可能性もあります。
 個人名の土地に賦課されるということは、この久野田の所有者は村主氏と同じく神主であった可能性が大で、先ほどの浅間神社領に久野氏の屋敷があったことと考え合わせますと、駿河久野氏は神主であった可能性が大です。
 
 また、鎌倉時代に鎮西探題引付衆の久能(久野)左近将監頼貞が神事奉行であったとか、鳴海系図の久野次郎太屋仲が尾張の成海神社神主で武官を兼ねていたことからも、駿河久野氏の神主説は裏付けられるのではないでしょうか。

 従って、桶狭間の合戦に敗れ尾張に住み着いたという加木屋系図に出てくる久野清兵衛栄邑の実在性は「新宮神主浅間社領屋敷銭書上ゲ」の記述から傍証されたものと考えられ、宮ケ崎町から尾張に出陣したのでしょう。

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