『諸士伝略稿』にみる久野氏

 『諸士伝略稿』とは尾張藩士で長沼流兵学家の中山和清(1765~1829年、通称七太夫、号荘伯)が書いた尾張藩士の列伝とでも言うべきもので、原本は名古屋市鶴舞中央図書館に所蔵されています。

 この中に尾張藩久野家2代の久野宗信のことが書かれているのですが、久野氏の先祖は駿州今川氏に仕え、駿州久野城主にちなむ氏であり、遠江人とするのは誤りであると明言しています。

 久野宗信
 久野宗信初称木工大夫後改七郎右衛門系自藤姓其先
 讃岐守定全世仕駿州今川氏為州内久野城主因氏為
 一説作遠江人誤其後十世裔有監物吉政落魄失故業
 仕性高公及我敬公為馬廻役食禄四百石・・・

 尾張藩士のお目見得以上の格式を持つ各家の系図集である『士林泝洄』に久野氏は遠州久野城主の末裔と書いてあるのは承知していたはずですが、何を根拠にこのような記述がなされたのかは不明です。
 ただ、中山和清の第五子、清雄は明治5年に東海市の如意庵客殿に加木屋郷学校が創設された時の初代校長に就任していることから、和清が何らかの縁で加木屋村庄屋の久野家の古文書を調査済みで、『士林泝洄』の記述に疑問を持っていたのかもしれません。


 久野宗信は初め150石を賜り馬廻り役、清洲藩主松平忠吉卒去の後、清洲(のち尾張)藩主徳川義直に仕え御使番となり、大阪夏の陣で活躍の後に抜擢されて目付役となり、その後、御城代に任ぜられました。
 寛永10年には1000石を賜り、16年間御城代を務め、寛永17年父吉政が死去し、500石の加増の時に先祖供養の為に一寺を建立したいと申し出てこれを許され、正保2年亡父七回忌の時に寺が完成し、亡父の法号である清安を寺号としました。
 熱田神宮には寛永17年(1640年)正月に久野宗信が久野木工太夫宗治の名で奉納した剣があります。

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