駿河久野氏と大野城主佐治氏の関係

 三河今橋(吉田)城主であった牧野古白の後裔に牧野正成なる人物が『寛政重修諸家譜』に見え、次のような注記がされています。

  牧野三之助政徳が祖。清兵衛
  実は佐治遠江守某が男にして、成里が異夫弟たるにより、養育せられ、牧野
  を称し別に家をおこす。
  寛永系図に、正成は傳蔵某が二男にして、いとけなきとき、佐治氏が養子と
  なり、のち牧野を称すといふ。今の呈譜には、正成をよび妹ともに成里が異
  父の弟妹なりといへり。よりてこれにしたがふ事は、政徳が譜に詳なり。

 ここでの疑問は尾張に佐治遠江守なる人物が実在したのかどうかですが、佐治氏系図によると初代大野城主であった佐治宗貞(~1530年)の弟に遠江守某を名乗る人物がいたようです。しかしながら正成の生年は1572年で、この遠江守とは繋がりそうにありませんし、正成の通称である清兵衛は、正成以前の人物には牧野家にも佐治家にも出てこない初めての名前です。
 成里は大野で生まれ、16歳まで大野に居たようですから、成里や正成の母親は佐治氏、或は佐治氏に連なる出であった可能性が大ですが、正成の父親は久野清兵衛栄邑である可能性が考えられます。
 つまり、加木屋系図の「栄邑 久野清兵衛 故有テ牧野熊蔵ト改」の記述で、なぜ栄邑は牧野氏を称したのかですが、栄邑が桶狭間の合戦で敗れ大野に逃れてきた時、牧野成里はまだ四歳であり、父の牧野成継は成里が生れた前後に石川筑後によって討たれたため、大野には牧野氏の長たる人物が存在しなくなり、また古くからの牧野氏と久野氏の縁から、栄邑は牧野成里の母親と結婚して牧野姓を名乗ったのではないかと想像されます。
 そして正成は栄邑の実子であることから、自分が使っていた通称である清兵衛を名乗らせたのではないかと考えられます。

 このように久野栄邑にとって知多郡大野は第二の故郷とも言うべき土地なのですが、加木屋系図が伝えるように、弟の久野孫右衛門之永が桶狭間の合戦以前に尾張に来ていたとの話が本当であれば、栄邑はひとまず弟の居る大野に滞在して世の中の様子を見ながら身の処し方を考えたというのも自然なように思われます。

 では久野之永はなぜ駿河から大野に来たのかですが、大野城主佐治氏と今川氏との関係がある程度推測できればその理由も解明できそうです。
 弘治元年(1555年)の今川軍による織田信秀方の蟹江城(愛知県海部郡)を攻略した戦いでは先鋒として三河の諸氏が参加しており、この戦に佐治氏が関係していたかどうかが重要になります。
 長坂益雄著『甲賀武士と甲賀・知多大野の佐治一族』によれば、蟹江佐治の佐治金之助氏の話として、大野城主・佐治与九郎一成が逐電したか、大野城が消失したかの時に気落ちした佐治一族が船に乗って木田や蟹江に集団で渡り、それらの土地に土着したことが紹介されています。確かに電話帳を見ますと木田のある東海市大田町や海部郡蟹江町には多くの佐治姓の方が見えますからこの話は本当でしょう。
 木田に土着したのは、佐治一成の大叔父(祖父の弟)善次が荒尾家に婿養子として入り木田城主になっていたので、その縁で移ってきたのでしょう。

 また、蟹江とは佐治氏が今川方として蟹江城の攻防に参加した結果から地縁が出来たと思われますし、蟹江城攻撃には大野から船で参戦した可能性もあり、この戦では今川方の佐治氏の船が使われたと考えても不思議ではありません。
 当時、佐治氏の菩提寺であった東龍寺(常滑市大野町)の過去帳によれば、弘治元年に一人の戒名が記入され、「打死」と注記されていますので、この人物は蟹江城合戦の犠牲者かもしれません。

 今川義元が三河を占拠した一時期、吉田城や岡崎城、刈谷城には今川方の武将が城代を務めていますし、『寛政譜』の荒尾善次の項には、「右府今川義元と難をかまふのとき、籠城三年にをよび」と書かれ、また木田城の南に位置する寺本城(知多市)は今川方に人質を出したことが『信長公記』に書かれていますので、当時知多半島西岸も今川軍の影響下にあったことや、2代大野城主の佐治為貞が亡くなったのは弘治2年(1556年)であり、この時3代大野城主となる佐治信方が七歳の幼少であったことから、桶狭間の合戦以前に大野城に今川方の武将である久野之永が城代家老として入っていた可能性は否定できません。

 『愛知県史 資料編』に所収の「定光寺年代記」には、天文19年(1550年)8月に駿河の今川義元が五万騎で尾張の知多郡へ出陣し、12月に帰陣したとする内容や、天文19年8月20日に葛山氏元は朱印状で植松藤太郎に尾張出陣準備のための資金を与えるとあり、騎数に誇張はあるものの前記の可能性を補強する材料ではないでしょうか。
 従って、今川氏による大野城や大野地方の支配の実態は不明ながら、加木屋系図の久野之永の箇所に、「義元ニ仕ル」と記載されている意味は、今川義元に仕えて、大野城にやって来たと解釈しても全くの的外れではないように思われますし、之永の後裔の方が「先祖は大野城の城代家老職を務めていた。」との発言は重要かつ貴重なものであると考えます。

 なお、同時期ではありませんが鎮西探題の引付衆に久能左近将監と佐治右衛門太郎が見え、この右衛門太郎なる人物は佐治氏系図に「佐治右衛門三郎基氏、近江国小佐治郷住人」として出てくる人物の兄弟と思われますので、両家は鎌倉では顔見知りの間柄であったのかもしれません。

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