小浜藩久野家の先祖

 「岸和田藩久野家文書」には、文化4年(1807年)に小浜藩士久野重三郎直方が岸和田藩久野家に提出したと思われる系図があり、これには「本国三河」として藤原秀郷の末裔を称し、宗能以降の系譜の概略は系図1の通りです。

系図1

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 また、重三郎直方は宗明より7代目と記されています。
 次に文化五年にも久野重三郎直方は岸和田藩久野家を訪れ、今度は以前と違い藤原為憲の末裔を称した系図を携えたようです。 この時の宗能以降の系譜の概略は系図2の通りです。

系図2

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 以上から岸和田藩久野家との意見交換で、小浜藩久野家は紀州藩家老久野宗成の兄の系統であるとの確信を得たようですが、系図2に宗邦と宗国の二人が出てきており非常に紛らわしい事になっています。

 宗邦については、浅羽本久野氏系図によると三十歳 (慶長10年)で亡くなったとされていますが、慶長14年(1609年)に宗能が亡くなってのち宗邦は弟の宗成と家督争いをしていますし、慶長8、9年頃成立したとされる清洲藩(尾張藩の前身)の『薩摩守様御家中分限 清須城下』によれば、久野新次郎は寄合衆として六百石を知行していたことが分かっていますから、慶長10年は家督を継ぐために清洲藩を去り、遠州久野の地に帰った年かもしれません。
 『寛政譜』によれば父宗朝(宗秀)が京都で死去し領地を没収されたのが慶長元年(1596年)で、祖父宗能が久野城主に返り咲いたのが慶長8年ですから、それからさほど遅くない時期まで宗邦は松平忠吉に仕えていたと思われます。
 慶長14年の家督争いは本多忠勝を巻き込んでの激しいものだったらしく、争いに敗れた新次郎宗邦は失意のうちに母親の里である三河の吉良に引きこもったようで、吉良氏の菩提寺である愛知県西尾市の華蔵寺の吉良氏歴代のお墓の一角にひっそりと久野新次郎の墓石があるのがそれを物語っているようです。

華蔵寺の吉良家過去帳によれば、

「一法宗傳居士  明暦三丁酉年七月六日 義定公甥  俗名  久野新次郎」

   注 明暦三年(1657年)

となっており、また『南紀徳川史』に所収の天方四郎三郎通清(通興)の家譜によれば、吉良義康(安)の娘二人は権現様の娘分との上意にて久野民部(宗秀)と天方山城守通縄(通綱)ご両人へ遣わすと書かれており、徳川家康の伯母・俊継尼が吉良義安と結婚していることや、吉良義安の子が義定であることから、家康は「いとこ」を娘分として遠州の有力な家臣に嫁として出したようです。また、久野新次郎の墓石には「外孫 黒柳儀左衛門」と彫ってあること、及び小浜藩久野家に新次郎宗邦の名が残っていないことから、小浜藩久野家の祖は系図2に記載の通り宗邦ではなく宗国だったのでしょうが、遠州久野各家の系図に久野宗国は出て来ません。

 系図に壬生姓(下野壬生城主の家系か?)が見られますが、私の以前のホームページの掲示板に「久野刑部左衛門については宇都宮家に仕え拾七貫百文の地を領し駒生に住すとあり、家紋は丸に釘抜き、改易により下るという家伝があります。」との情報をお寄せいただきました。また、宇都宮市立図書館所蔵の「下野国屋形家並旗下家来面々覚書(宇都宮家)」という宇都宮弥三郎国綱公家臣名簿(作成年代は不詳)には久野刑部左衛門の名がでてきますので、久野刑部左衛門宗国は実在の人物だったのでしょう。

 刑部左衛門に関連した事項としては、愛知県西尾市岩瀬文庫所蔵の紀州藩家老久野純固家臣犬塚正雄著『遠州久野家御代々御小伝』の系図には久野宗仲の次男の久野宗俊が形部亟(刑部丞か)を称し、宗俊の子の宗尚が刑部四郎を称しており、この系統は刑部の官職名を名乗っていることが判明しました。

 笠間市の久野半右衛門家の祖である宗清も刑部左衛門を名乗り、刑部を名乗る人物は、「遠江久野氏の祖を探る」の項で言及した遠江久野氏の祖である久野宗俊の後裔で、遠州久野城主の久野宗隆や久野宗能とは別系統であり、遠州久野家の永禄騒動後に関東に下り宇都宮家臣になった者や、宇都宮氏配下の壬生氏の家臣になった者がいたのかもしれません。

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