伊勢・久野三直の出身地

 

 『三重県史』資料編近世1に、伊勢市神宮文庫所蔵の「太田重就申状(久野三
直宛)天正十六年九月十日」が収録されており、この久野三直とは伊勢・田丸城主の田丸直昌の家臣であったと思われ、伊勢大湊の太田新八重就が塩田の四至の境で争いが起き、自己の正当性を久野三直殿人々に宛てて訴えたものです。

 久野宗成が紀州藩家老として伊勢・田丸城主となったのが元和五年ですから、それ以前に久野三直が伊勢に居たことになります。

 伊勢の隣の伊賀には、本能寺の変の際に徳川家康の伊賀越えに同行したとされる伊賀者の中に久野弾正、久野藤左衛門、久野万野の3名が見えます。
 この久野弾正が「桶狭間の合戦と久野(久能)氏」の項で出てくる桶狭間の合戦で討ち死にしなかった久野弾正と同一人物と仮定しますと、知多半島の大野城に居た牧野成里は父の仇討ちを果たした後に大野を去り、滝川一益に仕え、その後、織田信雄の家臣となっていますので、この時に大野城にいた久野弾正らも同行し、伊勢、伊賀方面との縁が出来たのかもしれません。
 
 もしそうであれば、一時、大野城には城代家老を務めていた駿河の久野氏がいましたので、久野三直も久野弾正らと同族で、駿河出身の可能性が考えられます。

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