久野氏の祖・秦久能の足跡を推理する

 秦久能の手掛かりとなる記述は加木屋系図に残されています。
 加木屋本家系図では、「秦川勝ノ孫尊良末久能筑紫大嶋住亦珠流河国草薙山住久能山之城主也久能寺建観音有ハ妙音寺村也」とあり、加木屋分家系図では、「秦ノ川勝ノ公子尊良ノニ子久能秦欲遯乱東有地謂名島也経仁数方里筑紫来大島住亦珠流河国草薙山住久能山之城主也久能寺建勧音有妙音寺村也」と書かれ、分家系図では秦久能が筑紫に移ったのは東の地が乱れたことを理由にしているのが特徴です。

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中平銘大刀の来歴について

1.はじめに
 4世紀後半の築造とされる奈良県天理市の東大寺山古墳から出土した国宝の長さ約110cmの鉄刀には、金象嵌で「中平▢年五月丙午造作文刀百練清剛上應星宿下辟不祥」の24文字(推定文字を含む)が入れられており、その意味は概ね、「中平▢年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。百練鉄の刀であるから、天上では神様のお役に立つであろうし、下界では禍ごとを避けることができる。」と解釈されています。

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倭と日本は同時期に存在していたのか

1. はじめに
 7世紀の倭と日本に関する中国の正史の記述は変化に富んでおり、倭と日本の2国が列島に同時期に存在していたのか否かについては諸説がありますが、その他の点を含めて中国側がどのように列島の歴史を理解していたのかについて推測してみたいと思います。

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秦王国とは

1. はじめに
 『隋書』俀国伝の大業四年(608年)に裴(世)清が竹斯国から東に向かい
秦王国に至ったという記事があり、この秦王国がどこにあったのか、または誤
伝なのかについては諸説があるので、主要な説を概観すると共に、以下に思う
ところを述べてみたい。

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古代の宗像氏とその周辺

1.はじめに
 福岡県にある宗像大社(以下、宗像社という。)の奥宮が玄界灘の沖ノ島にあり、この島から「海の正倉院」と呼ばれるほどの多彩で貴重な品々が発見され国宝に指定されていますが、4世紀後半に始まったとされるこの祭祀を神官の宗像(胸肩、胸形、宗形とも称する)氏が単独で行ったとするにはその目的と必要な財力からして疑問であり、宗像氏がヤマト王権の国家祭祀の一翼を担ったものとするのが通説です。

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『宋書』倭国伝の司馬曹達について

1.まえがき
 『宋書』倭国伝の元嘉二年(425年)条にある倭王讃の朝貢の使者の司馬
曹達について、任那日本府で現地採用された官職名が司馬を名乗る中国系の
人物であり、倭讃の使者として宋に上表文、そして曹達の発案・進言により
高句麗で得た方物を届けたとする意見もありますが、これには疑問な点があ
りますのでそれを記すと共に、別の解釈を提示してみたいと思います。

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出雲の久野氏

 出雲の久野氏がいつから久野姓を名乗ったのかは不明ですが、網野善彦著『日本中世史料学の課題』に京都府福知山市の桐村家が所蔵する大中臣氏略系図が紹介されていまして、常陸国新治郡を東、中、西に分割した時の中郡(茨城県桜川市)の郡司を勤めたのが藤原摂関家の流れをくむ上総介頼継としており、この子孫の中郡経元が承久の乱における戦功で出雲国久野郷の地頭職が与えられたとされており、中郡重経の子孫が出雲に下ったのではないかと考えられています。

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名古屋系図

 尾張藩久野家の系図では尾張藩久野家初代の吉章(吉政と書かれている資料が多い)まで記載されています。
 この系図には、紀州藩久野家初代の宗成や、岸和田藩久野家初代方明の父である宗茂も記され、このような系図となったのは、各家が情報交換をした結果だと考えられます。

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