笠間市久野家の先祖

 笠間焼の祖である久野半右衛門(1701~1782年)は、笠間藩領茨城郡箱田村の名主の家に生まれ、実名を道延と称し、久野家の祖は駿河国今川氏の家臣であったが、のちに下野国宇都宮氏に仕え、主家没後は箱田村に土着したと伝えられており、安永年間(1772~1781年)、近江国信楽の陶工長右衛門に陶器製法を教授され試作したのち、屋敷内に登窯を築いて長右衛門とともに制作に努め、長右衛門が去ったあとには婿養子の瀬兵衛益信を信楽へ赴かせ陶工吉三郎を招き陶業に腐心したと『茨城県大百科事典』には紹介されています。

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備中土岐(浅野)氏

 岐阜県瑞浪市に本部がある美濃源氏フォーラムの『’96美濃源氏土岐氏研究講座 講義録』で岡山県笠岡市の土岐嘉允氏が発表された「備中の一土岐氏について 起源と系譜の考察(第一部)」から、備中・浅野氏の同族と思われる備中・土岐氏の系図情報について当主を時代順に列記してみました。

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倭の五王に係る書紀の信ぴょう性について

1. はじめに
 『日本書紀』には倭と宋との外交において宋は呉として書かれ、その交流は
(1)応神37~41年、(2)仁徳58年、(3)雄略6年、(4)雄略8~10年、
(5)雄略12~14年に記述されています。
 一方、これに対応する宋の記事は『宋書』列伝や帝紀に記述されています。
 ここでは特に『日本書紀』の記述の信ぴょう性について有益と思われる論考「大化前代の紀年Ⅱ」(『北海道教育大学紀要』32巻、2号に所収、栗原薫、1982年)を紹介すると共に、倭の五王の一部について思うところを述べてみたい。

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熊本藩久野家の先祖

 熊本(細川)藩久野家については、「肥後細川藩拾遺」というHPを開設されている方から細川家に伝来する資料などを集めた永青文庫の「先祖附」という家臣団関係の資料を紹介頂き、その資料によれば家祖の久野次郎左衛門は尾張出身で、旧主は佐久間右衛門(信盛)であることが分かっています。

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藤原三郎通種とは誰か

 静岡県掛川市域の原田荘の円通院の住持であった松堂高盛(1431~1505年)が書いた『円通松堂禅師語録』の文明13年(1481年)の記事には「香心院主明智公者、遠州久野藤氏之家産也、天性好和歌、事江湖遊興、嚢中貯風月、筆下走龍蛇、寔是大雅余声、風流奇士也」とあることから、原野谷川流域の円通院に近い寺(香心院)に久野氏が住んでいたと思われます。

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小浜藩久野家の先祖

 「岸和田藩久野家文書」には、文化4年(1807年)に小浜藩士久野重三郎直方が岸和田藩久野家に提出したと思われる系図があり、これには「本国三河」として藤原秀郷の末裔を称し、宗能以降の系譜の概略は系図1の通りです。

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尾張水野氏

 加藤正高著『郷土史に秘められた勇者 毛受勝助』と加藤國光編『尾張群書系図部集』を参考に尾張水野氏の概略系図を載せました。水野氏といえば愛知県の大族で、名字の地は瀬戸市域の水野ですが、名古屋市守山区志段味や尾張旭市新居、稲葉にも展開していったようです。

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遠江久野氏の居住地・鵯山はどこか

 久野城址保存会発行の『久野城物語り』によれば、遠江久野氏の居住地の鵯山は「静岡県袋井市国本字鵯山、現袋井市立東幼稚園、雇用促進住宅一帯と思われる。」となっていますが、江戸時代の絵図を見てもこの一帯の山中に平地らしきものは存在しません。

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