久野清兵衛栄邑は駿河浅間神社の神主だったのか

 小和田哲男著『今川氏の研究』という本に天正十五年三月七日付の「新宮神主浅間社領屋敷銭書上ゲ」と題する文書が紹介され、この文書の記録によれば年月の最後に「此帳ハ天正十四戌年府城修築ニ依テ上地セシ時ノ記ナリ御曲輪又武家邸トナレリ」と注記があります。

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邪馬臺(台)国の場所

1. まえがき
 邪馬臺(台)国の場所については古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』では福岡平野にあったとするが、福岡平野に7万戸が存在したとするには面積的に狭いとの専門家の意見もあり、この問題を解決するためには邪馬台国が筑紫平野や佐賀平野にまで広がった領域とすればよいが、当時、そのような広域国家が成立していたのかは、『日本書紀』の景行天皇の九州巡行時の地名伝承などからも想像することは難しいので、つまりは、『魏志』倭人伝の内容そのものに問題があるのではないかと想像されます。

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遠江久野家の永禄騒動

1. 永禄12年(1569年)1月に起きたいわゆる遠州久野家の永禄騒動には諸説がありますが、この事件が記録されている書物の中で最も信頼がおけると思われる江戸時代の地誌『三河後風土記正説大全』をベースに、この時既に徳川方の不意討ちにより亡くなっていた淡路守宗益と、宗益の子で宗益討ち死に時に武田方へ走り、久野城にはいなかった日向守宗一の二人を永禄騒動に登場させる訳にはいかないので修正を加えて表にしてみました。

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出雲国造家系図の信ぴょう性

1.  はじめに
  3世紀前後の時期の大型四隅突出型墳丘墓としては、島根県出雲市の西谷古
 墳群の2号墓、3号墓、4号墓、9号墓が、また島根県安来市の塩津山墳墓群の
 6、10号墓が知られ、弥生時代後期には出雲地方の東西に大きな政治勢力が
 形成されていたものと考えられています。

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稲荷山古墳出土鉄剣銘文の氏族について

1.はじめに
  埼玉県行田市の埼玉古墳群には、かつて大小40基ほどの古墳が造られた
 ことがわかっており、出土した遺物から5世紀後半から7世紀初め頃までの
 約150年間に次々と造られたと考えられています。
  この古墳群の1基の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘文の8代の
 氏族について、既に有益な内容の書籍もあると考えられるので、それらを
 踏まえて銘文の氏族を考察します。

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松野連姫氏系図の信ぴょう性

 国会図書館が所蔵する『諸系譜』第2冊に所収の松野連姫(まつののむらじき)氏系図は明治時代の系図研究家であった鈴木真年が収集した系図であると言われており、呉王夫差を初代とし、その末裔には『日本書紀』の景行天皇の熊襲討伐の段に登場する厚鹿文、迮鹿文、市乾鹿文、市鹿文が記述され、さらに『魏志倭人伝』に登場する伊馨耆が記載されると共に、倭の五王(讃、珍、済、興、武)が登場するという古代史上の有名人のオンパレードの様相を呈していまして、とても史実とは思えません。

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桶狭間の合戦と久野(久能)氏

 下の表は『駿河志料』に所収の「桶狭間殉死の士」から引用しました。
 また明治31年に陸軍参謀本部編として刊行された『日本戦史 桶狭間役』では今川方として討ち死にした人物として久能半内氏忠が、また今川方として討ち死にしなかった人物として久野弾正(実名は不詳)がリストアップされており、久野(久能)氏関連ではこの二人だけが確認できます。

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