1.はじめに
福岡県久留米市にある筑後一宮の高良大社の御貢所職であり、また神官領家を称して八人神官を指導し、近世では大庄屋であった稲員(いなかず)家に伝わる系図は、ネットではこの系図は九州王朝の根本史料ではないかとさえ言われているものであり、非常に興味深いものなのですが、5世紀の内容を含むとなると、誰が、何時、何の目的で作成したのか素朴な疑問も浮かんできますので、系図の周辺状況などからどこまでの年代を史実ととらえることが可能なのかを中心に探ってみたいと思います。
遠江久野氏は工藤祐経の後裔か
工藤祐経は源頼朝の寵臣であり、また所領争いから曾我兄弟の仇討ちにあったことで有名ですが、袋井市下山梨の久野氏系図では、
工藤祐経―祐時―祐朝―祐光―祐宗―宗仲―忠宗―清宗―宗継―国継―清元―宗司―宗則―宗種―宗清―宗隆
と人名が繋がっており、宗清を「工藤遠江守、工藤左衛門尉祐経十四代の孫なり」とし、宗隆を「久野氏元祖、工藤遠江守宗仲十代の孫」としています。
“遠江久野氏は工藤祐経の後裔か” の続きを読む尾張大島氏再考
以前に考察した結果の概要は次の通りです。
1.新愛知新聞(中日新聞の前身の一つ)を創業した人物の伝記である『大島宇吉翁伝』では清和源氏の新田氏流大島氏の後裔を称するものの、それを裏付けるものは見当たらない。
また、美濃や尾張に大島の名字の地を見つけ出せないのが現状である。
尾張氏と熱田神宮主要摂社の奉斎氏族との関係は
1.はじめに
『古事記』景行段には倭建命が東征の途中に尾張国に立ち寄り、尾張国造の祖先である美夜受比売の家に行ったとする記事を載せていますが、『先代旧事本紀』国造本紀では天火明命の十世孫の小止与命が尾張国造を賜ったとされており、これは通説とは親子関係が逆転しているようなので、その真偽を含めて尾張氏と熱田神宮の主要摂社の奉斎氏族との関係を探っていこうと思います。
今川範忠判物にみえる久野氏
近世旗本七百家に伝来する古文書二千四百通を家別に収録した近世初期の貴重な基本資料である『記録御用所本古文書』には次の「今川範忠判物」が掲載されています。
“今川範忠判物にみえる久野氏” の続きを読むセイベイ屋敷跡
静岡県榛原郡川根本町の小澤さん発行の『中川根ふる里通信第十四号』に地元の杉山さんの話として、少し面白い名前で「セイベイ屋敷跡」という地名があったことが紹介されています。
“セイベイ屋敷跡” の続きを読む一万首和歌作者の久野氏
井上宗雄著『中世歌壇史の研究 南北朝期』に掲載されている水戸市にある彰考館に所蔵の「一万首和歌作者」から武士のみを拾ってみましたが、時代的には貞治3、4年(1364、65年)の作とされています。
“一万首和歌作者の久野氏” の続きを読む久能氏と長谷川長者
長谷川長者とは静岡県焼津市域の土豪で、小川の地に住んでいたことから小川法永長者とも呼ばれ、文明3年(1471年)初見の長谷川政宣が知られます。
今川竜王丸、後の今川氏親が家督争いに敗れた時に、この長谷川政宣が一時かくまっていたことがあります。
古代の高原氏とその後裔
1.古代の高原氏
もと韓国(からくに)氏といい、韓国連源(みなもと)は宝亀八年(777年)に派遣された第14次遣唐使の録事に任命されており、唐からの帰途、済州島に漂着し略奪・留置されたが密かに脱出し、宝亀九年十一月十日に40余人を率いて帰国したと『続日本紀』にあります。
遠江国の鎌倉幕府御家人
遠江国の鎌倉時代御家人名については、『吾妻鏡』建長2年(1250年)3月1日条の「閑院内裏造営雑事目録」では原左衛門(忠安)跡と浅羽人々(浅羽庄司ら)らが二条面南油小路北を分担しているが、久野氏は見られない。
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