尾張大島氏再考

以前に考察した結果の概要は次の通りです。
1.新愛知新聞(中日新聞の前身の一つ)を創業した人物の伝記である『大島宇吉翁伝』では清和源氏の新田氏流大島氏の後裔を称するものの、それを裏付けるものは見当たらない。
 また、美濃や尾張に大島の名字の地を見つけ出せないのが現状である。

2.若狭の大島半島(現在の福井県大飯郡おおい町大島)の大和・大安寺の荘園を管理していたのは先祖の大島次郎で、しばらく国御家人の地位にあったが、承久の乱後に国衙方に所領を奪われ、その後の経緯は不明ながら隣国の丹後守護・一色氏の家臣となり、一色義遠の子が土岐成頼となり美濃守護に迎えられた時、大島氏も臣下として美濃に入国したものと思われる。

3.明応5年(1496年)に美濃守護・土岐家内で船田合戦と称する内戦があり、大島備前前司父子は降参・赦免、大島中務丞は死罪となる。

4.その後、美濃に残った者や尾張に移住した者がいたようで、美濃に残った者の中から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた大島光義を祖とする旗本大島家があり、尾張や伊勢に移住した者の中には伊勢の北畠家臣となり、天正2年(1574年)に当時尾張国だった長島で織田勢と戦った者の中に長島城主の大島新左衛門尉親崇がいる。
 そして、これらの関係一族が尾張の大島氏を形成したと考えるのが妥当であろう。

 ところが福井県おおい町の大島はいつ頃出来た地名かと言えば、室町期に大島荘が見えるのが最初と思われ、「和名抄」遠敷郡志⿇郷の郷域内にあり、天平19年(747年)の⼤安寺伽藍縁起并流記資財帳に「若狭国乎⼊郡嶋⼭佰町、四⾄、四⾯海」とされている嶋山がその地名で、⽂永2年(1265年)の若狭国惣⽥数帳写に「志万郷」がみえ、「領主御家⼈和久⾥兵衛⼤夫跡同⼜三郎伝領之也」とあるので、この時すでに所領は大島次郎の手を離れていたことが確認できる。
 従って、福井県おおい町は名字の地ではないことになり、『角川日本地名大辞典 福井県』に「青・木津・佐分・薗部氏あるいは同氏の子孫かと考えられる大島氏は地頭・領家によって所領を奪われている」と記されている箇所で、大島氏が薗部氏の子孫とするのは誤りであることが分かります。

 さて、肥前大島氏の中で福岡藩に仕えた者は来島と改姓し、その来島氏の「来島文書」では肥前国御家人として大島次郎通綱なる人物が出てきますので、関連すると思われる事項を他文書の内容と合わせて列記しておきます。
・貞応3年(1224年) 
大江通頼が肥前・宇野御厨内の保々木(宝亀)、紐差、池浦、大島の地頭職を認められる。
・歴仁元年(1238年)頃か
肥前国守護武藤資能が大島二郎宛てに京都大番役勤仕完了を証明した覆勘状を出す。
・建長2年(1250年)
「若狭国旧御家人跡得替次第」では大島次郎の名を挙げ、承久の乱以後に若狭国の所領が押領されたことを幕府に報告。
・文永7年(1270年)
肥前国御家人大島次郎通綱子息又次郎通清と舎弟地蔵丸が肥前・宇野御厨内の大島地頭職など父の跡式相続を申請した。
・文永8年(1271年)
「関東御教書」に出雲国田頼郷11丁9反半の地頭職として大島弥二郎子とある。
・正応6年(1293年)
北条兼時が九州博多に到着した直後に鎌倉では平禅門の乱が起こり、5月3日に事件を報ずる早馬が博多に到着し、5月7日には肥前国御家人大島弥二郎通継が参上し、5月9日に着到状を提出した。着到状の署名には大江通継とある。

 従って、大島次(二)郎とは肥前国御家人の大島次郎通綱のことであり、父は大江通頼と思われ、名字の地は現在の長崎県平戸市大島村(的山大島・あづちおおしま)です。
 この大島次郎通綱の子孫と推定される出雲国田頼郷地頭に大島弥二郎の子がいた訳ですから、通綱は在京しており、肥前、若狭、出雲の在地には子孫や代官を派遣していたのでしょう。

 なお、大江氏が所領を相伝していた例として早稲田大学古典籍データベースには「近江国香庄相伝系図」があり、それには大蔵大輔大江朝臣通国-大学頭大江朝臣通盛―散位大江朝臣通光とあり、通国は『尊卑分脈』に大学頭、伊豆守、従五位上と記され、通光は相伝系図によれば保元3年(1158年)に女子尼尊妙に香庄を譲っています。

 また、大島次郎通綱の先祖を含む系譜としては、大江国兼(筑後守)-大江国通(肥前守)-大江通資(肥前守)-大江通頼-大島次郎通綱が想定され、大江国通は肥前国松浦荘を私領として有し、この所領は後に一族が伝領していったとのことです。

 以上のことから、「通」を通字とする大江氏から分枝したのが大島次郎通綱であり、尾張・大島氏もその後裔であると想定されます。

 この大江氏、大島氏は荘園の管理に関わりの深い一族なのですが、それ以前は土師氏を称し、古市古墳群や百舌鳥古墳群の古墳の築造、埴輪の製作、葬送儀礼に携わったとされ、大阪府藤井寺市の道明寺一帯や大阪府堺市中区土師町付近を本拠とした氏族であったといわれています。

 その後は山城国乙訓郡大枝郷(京都府京都市西京区)に移動し、この地を名字の地として大枝氏を称し、後に大江氏に改姓しています。

 なお、大島氏が若狭から丹後に移ってきた経緯などを簡単にまとめておきます。
・若狭国御家人は文永10年(1273年)には旧御家人跡の復興を求める申状を関東に提出し、御家人跡の復興は関東から守護に厳しく命ぜられた。
・貞治5年(1366年)に若狭国守護になったのは一色氏であるが、応安4年(1371年)の国人一揆の時に青・佐分氏らは守護一色氏に従って一揆方を討ったとの記録があるので、この時すでに、青・佐分氏と共に大島氏の所領も回復されていたものと考えられる。
 その根拠として、後述するように名字の表記を「大志万」とするものも見え、志万郷の所領が回復されたことにちなみ、大志万(=大島)の姓を称した者もいたのであろうと想像されるからです。また、室町期に大島荘と命名されたのも大島氏が旧領に一時復帰した結果なのかもしれません。
・永享12年(1440年)に若狭守護は一色氏から武田氏に替わったわけですが、武田氏入部にさいして、若狭の土豪たちは一色氏とともに若狭の地を離れ丹後へ移るか、あるいは若狭にとどまり一色牢人として蜂起し武田氏に討たれるかの、いずれかの運命をたどっていったとされます。
・『丹後旧語集』には、「元来日下部村は春日大明神之社領故春日部村と云、古来奈良西大寺領地也収納滞るに付一色左京太夫を頼田中村大島但馬を頼みて納米取立奈良の送米労功なく切事故後は但馬押領す、其後大島御家人と成領地替る。」とあり、現在の舞鶴市志楽地区の旧村春部村を領した一色家臣の大島但馬守が見えますので、若狭から移ってきたものと思われます。
 この大島但馬守は天文23年(1554年)に若狭守護方と丹後の泉源寺村や浜村付近で戦ったとされ、父の大島志摩守道育は舞鶴湾岸の田中高屋城に居城し、長浜弁財天島も持っていたと『丹後旧語集』には書かれています。
・享徳2年(1453年)9月17日、9月27日付の室町幕府奉行奉書案によれば、大志万修理亮は加藤出羽守と共に丹波国大山庄内の東寺領の段銭の徴収を担当していたことが分かります。

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