尾張大島氏(前編)

1.はじめに
  尾張大島氏については既に「尾張大島氏再考」に本編とでも言うべき内容をアップしていますが、そこに至るまでの概要が簡単過ぎるのではないかと思いますので、ここに前編としてまとめます。

2.系図の検討
  大島宇吉は新愛知新聞(中日新聞の前身の一つ)を創業した人物で、愛知県図書館に所蔵の『大島宇吉翁伝』に系図が掲載されています。この大島氏は新田氏流を称し、「応仁の乱後尾張国春日井郡に住して郷士となり、家紋に揚げ羽の蝶を用い、一族中には美濃に住した人もあった。  
  天正年間光泰は織田家に仕えていたが長湫の合戦後故あって致仕し、牛牧村に住して帰農した。その後忠右衛門に至り、小幡村西市場に居を移した。」となっています。

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  義勝までは『寛政重修諸家譜』に出てくる美濃・大島氏と同じ人物が記されており、美濃・大島氏の系図で初代らしき人物は「光宗」、こちらは「光泰」と、どちらも「光」の字を用い家紋も同じですが、美濃・大島氏の系図自体が『尊卑分脈』の新田氏流大島氏と大きく違っており、この大島氏は新田氏流ではない可能性が大です。
  美濃・大島氏の系図は大島光義の三男光俊の妻が大井田氏の出なので新田氏に付会させたのではないかと考えられ、名字の地は『姓氏家系大辞典』の記載や、元禄時代に駿河大手組にいた美濃・大島氏の後裔の大島雲四郎の認識(『静岡県姓氏家系大典』)の通り大垣市大島町と想像されますが、この地は暦応4年(1341年)時点では室町幕府の評定衆であった摂津親秀やその孫の摂津能直(~1386年)の所領(『続群書類従』 巻421 摂津親秀譲状)で、摂津能直の子である能秀も評定衆であり、摂津氏は代々室町殿の中臈女房を出す家柄でもあったことから、美濃守護土岐氏がその所領を横領して年貢を納めないだけでなく、『続群書類従』巻128土岐系図に出てくる土岐氏流大島氏の初代光吉(14世紀後半頃の人物か)に与えて大垣市大島町を名字の地とし、完全に私領にしたとするのは室町幕府重臣への敵対行為とみなされるため簡単に決行出来る事ではないように思われますが、実際はどうだったのでしょうか。
  そもそも大島光吉の祖父である土岐光時は系図の世界で最も信頼がおけるとされる『尊卑分脈』には出てこず、5代美濃守護土岐頼忠が開基した禅蔵寺(岐阜県揖斐郡池田町)が所蔵する系図には光時(養子)、七宗地頭としか書かれておらず、また『系図簒要』には光時、笠毛八郎と書かれているのみで、どちらにも以降の記載がありません。
  『続群書類従』巻128土岐系図では土岐光時の兄である頼重の箇所には「号船木」と書かれており、新しく名字を起こした家であることが分かりますが、光吉大島と書かれているだけでは大島氏の養子に行った人物の可能性も否定出来ませんし、大垣市の名字の地に伝承などが残っていないことや、大島光義が豊臣秀吉や徳川家康から安堵された所領の中に大垣市域の土地が含まれていないことから、この系図がどの程度信用出来るのかは分かりません。
  戦国時代の美濃国の動乱で出自に関する資料を失った結果がこのような系図になっていると思われますが、一つ注目すべき事柄として、『寛永諸家系図伝』の美濃・大島氏の光義の父光宗の生国が丹波となっており、NTTの2012年度版電話帳では京都府(丹波の面積の過半数を占める地域)に大島氏が610人登録され多い印象を受けますし、京都府の大島氏の家紋は美濃大島氏と同じ「揚羽蝶」を使っている人もいますので、美濃・大島氏は丹波から美濃へ来住したのかもしれません。
  特にNTTの電話帳では丹波地方の綾部市に大島氏が107人で大嶋氏が13人、福知山市に大島氏が46人で大嶋氏が28人見えますので、京都府の中では目立ちます。
  室町時代の公卿、万里小路時房の日記『建内記』の正長元年 (1428年)10月条に7代美濃守護土岐持益の京都代官として大島入道と書かれた人物は、在京の土岐氏に仕官した丹波大島氏の系統の可能性があります。
  『寛永諸家系図伝』の大島光宗の親である「某童名西翁丸」の箇所には、「家伝にいはく、西翁丸幼稚にして倭歌をこのむのよし叡聞に達し、あるとき召れて参内す。
・・・」
という話を載せており、参内した西翁丸が京都代官の大島入道の子に当たる世代なのは興味深いところです。

3.丹波大島氏の名字の地の検討
  さて丹波大島氏の名字の地ですが、京都府の隣の若狭・大島半島にある福井県おおい町大島の可能性が考えられます。『東寺百合文書』によると若狭国の御家人たちは建長2年(1250年)6月の「若狭国旧御家人跡得替次第」という御家人の所領状況を列挙した詳細な注文を幕府に提出しています。
  その中に承久以後に領家に押領された御家人領として大嶋次郎の跡を挙げているのがその根拠です。
  真言宗の奈良大安寺の荘園があったおおい町大島には平安時代の仏像がある長楽寺や常禅寺が、また鎌倉時代の仏像がある清雲寺があり、この事は製塩によりこの地方が栄えていた証拠ではないかとされ、所領の支配を巡って攻防があったのかもしれません。
  美濃大島光義の後裔や備中倉敷の大島氏の江戸時代の人物が次郎右衛門(次右衛門)を称していることと、この大嶋次郎との名乗りの共通性は偶然の一致なのか興味のあるところです。
  なお、『角川日本地名大辞典 福井県』によれば、この大嶋次郎は建久7年(1196年)6月の「若狭国先々源平両家祗侯輩交名案」(いわゆる、先々から源・平両家に仕えた者の名簿)に記載された33名の御家人の一人である薗部次郎久綱(福井県高浜町薗部を名字の地とする)の子孫ではないかとしています。
  若狭国の御家人については、最有力の在庁稲庭権守中原時定を中心に、郷司・下司・公文などの職を保持する荘・郷・保・名の地名を苗字とした中原氏・惟宗氏・小槻氏・藤原氏・柿本氏などが、「時」「頼」「家」「清」「兼」などを通字とした実名を名乗りつつ、姻戚関係で網の目のように結ばれていたと指摘されており(『福井県史 通史編2中世』)、五・六位の官人の後裔が若狭に下向し、若狭で武士化したと考えられることから、薗部氏もそのような一族であったのかもしれません。
  また戦国時代には若狭の隣の丹後(舞鶴市)の田中高屋城主に一色家臣の大嶋但馬守が見え、この大嶋氏は永享12年(1440年)に武田信栄が若狭に入国後に一色氏と共に若狭から丹後に移ってきた可能性が考えられます。
  若狭の御家人であった和田氏は丹後国加佐郡池内保(京都府舞鶴市)や丹波国天田郡川口荘(京都府福知山市)へも娘を嫁がせており、丹後東部や丹波北部の土豪たちともつながりをもっていたことから、若狭の大嶋氏も同じように丹後や丹波に縁があったとしても不思議ではありません。
  さらに、室町幕府の奉行人であった松田氏は丹後の出身であり、若狭にも所領を有していたので、美濃守護で在京の土岐持益の代官をしていた大島氏とは旧知の仲であった可能性は否定出来ません。

4.美濃入国の大島氏
  この大島氏は8代美濃守護土岐成頼の時代に美濃に入国したと思われ、土岐成頼は土岐一族諸流の饗庭備中守の子とも、丹後守護一色氏の分家である一色義遠の子ともいわれている人物であることから、大島氏は一色氏との縁から土岐成頼に臣従していたのかもしれません。

  美濃に実在した大島氏を以下に列記します。
・大島弾正忠利堅・・・・寛正5年(1464年)、美濃・郡上郡白鳥町上保一帯
            における8代守護土岐成頼の代官。
・大島瑞信 ・・・・・・長享2年(1488年)、8代守護土岐成頼の三奉行の
            一人。
・大島備前前司父子・・・明応5年(1496年)、8代守護土岐成頼の後継を巡
            り、執権の斎藤利国父子と重臣の石丸利光父子が
            家臣を二分して戦った船田合戦に参加し降参・赦免。
・大島中務丞・・・・・・同じく船田合戦に参加し死罪。
・大嶋   ・・・・・・永正、大永年間(1504年~1527年)、守護土岐氏
            の重臣。(室町幕府の申次衆などを務めた大館尚氏
            の大舘常興書札抄の「諸大名被官少々交名之事」の
            中の土岐殿内に斎藤、大嶋、遠藤の三氏がみえる。)
・大島光宗(光時)・・・ 永正12年(1515年)、美濃・山県郡で斎藤氏らと戦
            い戦死。
・大島光義  ・・・・・大永元年(1521年)、美濃・多芸郡の大杉弾正の
            家臣。その後長井隼人に属し、永禄8年(1565年)
            織田信長の家臣となり弓足軽頭。その後豊臣秀吉に
            属して弓大将。さらに徳川家康に仕える。
  なお、大島光義の人物像については『九十三歳の関ヶ原‐弓大将大島光義‐』近衛龍春著、新潮文庫に詳しい。
  
5.尾張・伊勢入国の大島氏
  NTTの電話帳によれば愛知県一宮市には236人の大島氏が登録されていることから、戦国時代に多くの大島氏が美濃から尾張に移住してきたものと思われます。
  天正2年(1574年)に伊勢長島(当時は尾張国に属す)で織田勢と戦った北畠旧臣には大島新左衛門尉親崇(長島城主。美濃尾張鎮守で大島讃岐守を称し、妻は豊臣秀吉の父・中村弥助昌吉の娘か。親崇の娘お国は豊臣秀次の側室。)が、他の北畠家臣には大島豊後守、重内、若太夫、内蔵頭義千がおり、さらには天正4年(1576年)に伊勢・霧山城で討死した大島権王丸頼宗が、また美濃出身の明智光秀方として天正十年に山崎の合戦で討ち死にした人物に北畠旧臣の大島勘蔵頼通がいますが、これらは皆美濃出身者であろうと思われます。
  大島新左衛門尉親崇についてはネット上の百科事典であるウィキペディアでは、
「大島 親崇(おおしま ちかたか、生年不詳 – 元和2年(1616年))は、戦国時代から安土桃山時代に伊勢国で活動した戦国武将。通称は新左衛門、法名は浄賢。
  阿波国を本拠とする三好氏の一族で三好長延の子。長島一向一揆に与した。
  妻は尾張国の土豪の娘で、妻の兄の吉房は豊臣秀吉の姉の日秀を娶っており、豊臣秀次は義理の甥にあたる。
 略歴
  父の三好長延が本願寺実如に帰依した縁で、伊勢国長島で一向宗の門徒として活動した。また大島を拠点としたため、名字を三好から大島に改めた。元亀元年(1570年)から天正2年(1574年)にかけて、長島一向一揆方の武将として活躍。
  しかし、天正2年(1574年)、長島城が落城し、尾張国前ヶ須に退去。
  天正18年(1590年)、羽柴秀次が尾張並びに伊勢の一部の領主になると、親崇は長島に戻り、甥の秀次の家臣となった。また、親崇は娘・お国を秀次の側室とし関係を強化したが、1595年に、謀反画策の罪で羽柴秀次と側室である娘が処刑されると出家し、その後は勤行三昧の生活を送った。元和2年(1616年)に死去。」
とありますが、伊勢長島の大島を拠点としたため名字を三好から大島に改めたという記述は、戦国時代にこのような例を聞いたことがなく信用できませんので、三好氏から大島氏へ養子に入った人物ではないかと思われます。
   佐々木氏郷編著『江源武鑑』によれば、豊臣秀次の側室であったお国を大嶋次郎右衛門女としていますから、大島新左衛門尉を名乗る前は養家の通称である次郎右衛門を名乗っていたのかもしれません。

6.備中入国の大島氏
  備中倉敷で船頭頭から商人になった大島氏(通称は次郎右衛門)の一族には北畠旧臣の大島勘蔵頼通と通称が同じ人物も見え、江戸時代の美濃と備中倉敷の大島氏が称した通称で同一のものは、「次右衛門(次郎右衛門)」、「茂左衛門」、「茂三郎」、「亀太郎」、「左太郎(佐太郎)」であり、また美濃出身で落語の祖と言われた安楽庵策伝(1554年~1642年)は京都の禅林寺で25歳頃まで修行し、その後約15、16年間備前、備中、備後地方でお寺の再建などに尽くし、後に堺や美濃などで住職になったのですが、備中では後に大島氏が住んでいた倉敷市内の美観地区の誓願寺や西阿知町の極楽寺の再建のために立ち寄ったそうですから、同郷の策伝やその関係者から情報を仕入れて備中倉敷に移住したとも考えられ、この大島氏も美濃、尾張、伊勢の大島氏と同族ではないかと思われます。
  また話は前後しますが、倉敷・大島氏の歴代の当主の実名が安斉、安之、安久、安敞、安義、安境と「安」を通字としており、これは先祖が尾張上四郡の守護代であった岩倉城主・織田伊勢守信安(岩倉は一宮市から近い所にある)から一字を拝領した結果かもしれません。

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