古代阿曇氏の発祥地について

1. はじめに
 『日本書紀』によれば、阿曇氏やその先祖には応神朝に大浜宿禰、履中天皇即位前紀に阿曇連浜子、推古朝に阿曇連(闕名)、皇極朝・天智朝に阿曇連比羅夫、孝徳朝に阿曇連(闕名)、斉明朝・天智朝に阿曇連頬垂、天武朝に阿曇連稲敷がいます。

 発祥地については難波説以外に筑前国糟屋郡阿曇郷説もあるとのことですが、この説については篠川 賢著「古代阿曇氏小考」(成城大学リポジトリ:紀要論文 文学研究科 『日本常民文化紀要』第三十一輯 (2016.3)所収)で否定されていますのでその結論を概観すると共に、思うところを述べてみたい。

2.「古代阿曇氏小考」の結論概要
 本小考の結論の概要は次のとおりです。
(1) 筑前国糟屋郡に阿曇部が設置されていた可能性は高く、その阿曇部を率い
  た地方伴造が阿曇連の氏姓を称し志賀海神社を奉斎した可能性や、その阿曇
  連氏が中央の阿曇連氏と同族であった可能性も否定できないが、そのことが
  志賀島やそれを含む北部九州地域を本拠地、あるいは発祥の地と考える根拠
  にならないことは明らかである。
(2) 『筑前国風土記』逸文(『釈日本紀』所収)には、大浜・小浜は気長足姫
  尊(神功皇后)に従って志賀島に来たという記述がみられるが、大浜が阿曇
  連氏の祖と伝えられる大浜宿禰と同一人物であったとしても、それは、阿曇
  連氏の本拠が志賀島であったことを示すものとはいえない。
(3) 『太平記』や『八幡愚童訓』などで知られる安曇磯良の伝承は、楢崎干城
  氏による詳細な批判があるとおり磯良の信仰と阿曇連氏の結びつきを古代に
  まで遡らせることはできない。
(4) 『播磨国風土記』揖保郡浦上里条によれば、孝徳朝の阿曇連百足らはもと
  は難波の浦上に居住していたが、のちにこの地に移ってきたとされ、阿曇連
  氏・阿曇部の分布が摂津・河内・播磨・淡路・阿波など瀬戸内沿岸東部に多
  く分布することとをあわせて考えるならば、阿曇連氏はもともと淡路島を含
  んだ大阪湾沿岸地域の海人(海の民)を広く掌握していた一族とみることが
  可能である。
(5) 古代の北部九州に阿曇連氏を首長とした特殊な「海人族」が存在していた
  という見方に対しては否定的にならざるを得ない。

3.阿曇氏の概略系譜
 阿曇氏の系譜については確かなものはありませんが、『新撰姓氏録』や『高橋氏文』の逸文などを参考にして、阿曇氏と同祖一族の凡海(大海)氏を含めた想定系譜の概略はつぎのとおりです。


 書紀によれば、大海宿禰麁鎌(あらかま)は天武天皇崩御時に天武の幼児時代のことについて弔辞を読んだと記され、大海宿禰氏は大海人皇子の養育にあたっていたものと推定されていますので、阿曇氏と同じく王権に近い一族だったのでしょう。

4.阿曇寺と安曇江
 書紀には或本からの引用で、654年(白雉5年)7月、阿曇寺で療養していた僧旻を孝徳天皇が行幸して見舞ったとの記事があり、異説はあるものの阿曇寺は大阪市中央区高麗橋一丁目付近に比定され、安曇江は大阪市内の東横堀川沿いの高麗橋と平野橋の中間地に比定されますので、いずれにしても難波津付近に古代阿曇氏の本拠地があった可能性が高いものと考えます。

5.中央への出仕時期の検討
 膳氏の場合、埼玉県行田市を本拠地とし、中央へ出仕後もさいたま古墳群に古墳築造が続いていますので、地方に軸足を残しつつ中央へ出仕して出世するという形態をとっています。
 また胸形氏の場合も福岡県宗像市を本拠としつつ膳氏と同様な形態をとっています。
 翻って阿曇氏の場合、筑前国糟屋郡阿曇郷付近に目立った古墳も無くとても地方豪族とは思えませんので、一地方氏族からどのようにして王権にすり寄り中央豪族となり得たのか、また阿曇氏と同祖一族の凡海氏の伝承が九州地方に残っていないことから本当に九州を本拠とする氏族なのかは大いに疑問です。
 一般的に連姓氏族の本拠地は大和と河内の両方に分布していることが多いとされ、阿曇氏の場合も同様なケースと考えられます。
 持統5年(691年)には阿曇、膳部を含む18氏に先祖の墓記を提出させており、その目的は通説では書紀編纂の材料にするためとされていますが、『日本書紀成立史攷』(笹川尚紀、塙書房)によればそうではなくて、初期の天皇陵や有功の皇族墓の所在を決定する際の資料として使用するためであり、合わせて持統朝よりも前の時期における諸陵墓の治定に誤りがないかを点検する目的であったとされ、墓記という記述に忠実に向き合った優れた論考であると考えます。
 従って、阿曇氏の難波から中央への出仕時期は膳氏とほぼ同じであったことが想定されますので、履中~雄略朝ではないでしょうか。

6.おわりに
 古代阿曇氏は難波津付近の安曇江を発祥とする氏族であり、もう一つの候補地である筑前国糟屋郡阿曇郷については阿曇部が設置されて部民が多く集住したことにちなむ郷名と思われ、発祥地の候補から除外しても問題はないものと考えます

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