- はじめに
『日本書紀』の大化改新以前の秦氏の氏人には、雄略朝の秦造酒公、欽明朝の秦大津父、推古・皇極朝の秦造河勝の3名が知られます。
邪馬台国大和説(2)
3.5 『魏志倭人伝』以外の中国史書の内容
(1)『魏略』
『魏略』は『魏志倭人伝』に先行して265年頃に成立したとされ、その
逸文が『翰苑』に収められていますが、その内容は識者の訂正内容を踏ま
えると次の通りです。
邪馬台国大和説(1)
1.はじめに
邪馬台国関連では既に「邪馬臺(台)国の場所」の項で言及してきましたが、
今回は論点を整理し、大和説が妥当かを探ってみたいと思います。
古代豪族・中臣氏のルーツを探る
1.はじめに
中臣氏は藤原鎌足や有力公家、有力神社の祠官家を多数輩出したことで有名ですが、中臣氏の祖である天児屋命の職掌は骨ト(こつぼく)であったとされていますので、確たる史料は無いものの占いを切り口に中臣氏のルーツを探ってみたいと思います。
四天王寺と難波津、及び前期難波宮
1. はじめに
5 世紀に難波地域の開発が始まり、上町台地やその周辺にはさまざまな施設や倉庫群、手工業の工房などがおかれ、都市的な様相をもちつつ難波遷都へとつながっていくと考えられており、難波津はこうした難波地域の繁栄を外交や流通の拠点として支えたものと思われ、四天王寺も地域の信仰を集めたものと想像されます。
息長氏について
1.まえがき
記紀における有名氏族の息長氏についてはさまざまな先行研究がなされていますが、その中から『学習院史学26号』に所収の「継体王系と息長氏の伝承について」篠原幸久著と『日本古代国家成立期の政権構造』(倉本一宏著、吉川弘文館、1997年)などを参考にして思うところを述べてみたい。
伊勢・久野三直の出身地
『三重県史』資料編近世1に、伊勢市神宮文庫所蔵の「太田重就申状(久野三
直宛)天正十六年九月十日」が収録されており、この久野三直とは伊勢・田丸城主の田丸直昌の家臣であったと思われ、伊勢大湊の太田新八重就が塩田の四至の境で争いが起き、自己の正当性を久野三直殿人々に宛てて訴えたものです。
法隆寺釈迦三尊像光背銘の不思議
1. はじめに
法隆寺金堂の釈迦三尊像光背の裏に記されている銘文の末尾には「使司馬鞍
首止利佛師造」となっており、一般には「司馬鞍首(しめのくらのおびと)止利
(とり)仏師をして造らしむ。」と読まれていますが、「司馬鞍」とは不思議
なウジ(氏)なので真相を探ってみたい。
愛知県に久野氏が多い理由
加木屋系図の南北朝時代と思われる箇所には、久野貞之が三河の牧野氏の養子となり牧野熊蔵を名乗ったとか、久野貴之が足助二郎の家臣になったことが書かれており、三河の諸氏と縁があったことが分かります。
“愛知県に久野氏が多い理由” の続きを読む久野氏の祖・秦久能の足跡を推理する
秦久能の手掛かりとなる記述は加木屋系図に残されています。
加木屋本家系図では、「秦川勝ノ孫尊良末久能筑紫大嶋住亦珠流河国草薙山住久能山之城主也久能寺建観音有ハ妙音寺村也」とあり、加木屋分家系図では、「秦ノ川勝ノ公子尊良ノニ子久能秦欲遯乱東有地謂名島也経仁数方里筑紫来大島住亦珠流河国草薙山住久能山之城主也久能寺建勧音有妙音寺村也」と書かれ、分家系図では秦久能が筑紫に移ったのは東の地が乱れたことを理由にしているのが特徴です。