古代豪族・秦氏のルーツを探る

  1. はじめに
     『日本書紀』の大化改新以前の秦氏の氏人には、雄略朝の秦造酒公、欽明朝の秦大津父、推古・皇極朝の秦造河勝の3名が知られます。

 そもそも書紀では秦氏が百済から加羅を通って列島へ渡来するさい新羅人に妨害されたと述べていますが、新羅の勢力が加羅に及ぶのは早くて6世紀初期以降であったとの意見があり、識者も秦氏が百済から渡来したとの考えに賛同されていないようです。
 そこで久野氏の祖でもある古代豪族・秦氏のルーツの一案を提示してみたいと思います。

  1. 『新撰姓氏録』の内容
     『新撰姓氏録』(814年撰述)山城国諸蕃の秦忌寸の条によれば、秦公酒までの概略は次のような内容になっています。
     ・応神14年に秦始皇帝の後裔の功智王と弓月王が127県の民を率いて帰化し、
      大和朝津間腋上(現在の奈良県御所市のJR和歌山線の腋上駅と玉手駅を含
      む一帯と推定される)の地を賜って居住した。
     ・仁徳朝に真徳王、その次の普洞王が波陁姓を賜った。これが今の秦の字の
      訓である。
     ・雄略朝に雲師王、その次に武良王と続き、普洞王の子の秦公酒が秦を称す。

     また、『新撰姓氏録』左京諸蕃上の太秦公宿禰の条には概略次のような内容が記されています。
     ・秦始皇帝3世の孫の孝武王の後裔である。
     ・仲哀朝8年に功満王が来朝した。
     ・応神14年に功満王の子の融通王(弓月王)が27県100姓を率いて帰化した。
     ・仁徳朝に127県の秦氏を諸郡に分置し、蚕を養い、絹を織ってこれを貢ぐ。
      天皇は秦王が献じた綿、絹織物は柔軟にして温暖なこと肌膚の如しとのた
      まい、波多姓を賜った。
     ・雄略朝に登呂志公、秦公酒は糸、綿、絹織物を積み上げて献上し丘のよう
      であった。天皇はそれをほめて禹都万佐の号を授けた。
     ここで太秦公宿禰の条では肌膚(はだ)との関連をとらえて波多姓の起源説話を作り上げたものであろうから、波多は「はだ」と読まれ、秦忌寸の条の波陁も「はだ」と読まれていたのでしょう。
     『古事記』応神天皇・髪長比売の段の歌には、
     ・美知能斯理 古波陁袁登賣袁 迦微能碁登 岐許延斯迦杼母 阿比
      麻久良麻久(みちのしり こはだをとめを かみのごと きこえし
      かとも あひまくらまく)
     ・美知能斯理 古波陁袁登賣波 阿良蘇波受 泥斯久袁斯叙母 宇流
      波志美意母布(みちのしり こはだをとめは あらそはず ねしく
      をしぞも うるはしみおもふ)
    とあり、波陁=肌です。
     また、禹都万佐の号を授けたとの内容は、『日本書紀』雄略天皇15年条の秦酒公が禹豆麻佐の姓を賜ったとの記事に対応したものです。
  2. 『古語拾遺』や『万葉集』の波陀・秦
     『古語拾遺』(807年撰上)では、「たてまつれる絹・綿・肌膚に軟らかなり。故、秦の字をよみて、波陀といふ。」とあり、波陀は「はだ」であり、秦も「はだ」と読まれていたことになります。
     また、『万葉集』巻第11-2399番歌の「朱引 秦不經 雖寐 心異 我不念」は「赤らひく肌も触れずて寐ぬれども心を異には我が思はなくに」と読まれ、ここでも秦=肌であり、秦は「はだ」と読まれていたのは間違いありません。
  3. 新羅・波旦部と中国の波氏
     1988年4月に韓国慶尚北道蔚珍郡竹辺面鳳坪里で発見された「蔚珍鳳坪新羅碑」は新羅法興王時代の524年に立碑したものとされ、その銘文には「波旦(はたん)部只斯利」なる人物が記されています。
     『三国史記』巻第三十五、志第四、地理二には、新羅の景徳王(在位742~765年)の時に元は高句麗の地であった波且県の名称を変更したが、現在の慶尚北道蔚珍郡のどこかは不明との記載があります。
     ここで蔚珍鳳坪新羅碑の波旦を地名とみて波且県のことを指しており、秦氏のルーツをこの地に求める説もありますが、『三国遺事』には漢祇部の金山加利村の村長の人名として祇沱(ぎだ)、または只他なる人物が登場します。
     蔚珍鳳坪新羅碑の名前の只斯利と『三国遺事』の只他に注目するならば、漢祇部の前身が波旦部であったことが推測されます。
     只は中国の姓にあるが、祇は中国の姓にはなく、祇の発音はヂィーであり、只の発音もヂィーであるので只→祇の姓となり、中国出身者であることから漢の字を付して漢祇部の部名が出来たものと考えられます。
     新羅には六部があり、その起源や変遷については、『三国史記』などには辰韓時代の六村がやがて新羅の六部に改められ、さらに高麗時代の慶州六部に至るという変遷観が示されているが、六村はあくまでも六部の起源伝承として理解すべきものであり、村は三国時代の新羅では城とともに地方統治の基底をなし、統一期に入っても郡県制の末端行政区画として機能しており、六村はそうした新羅の村を背景に、六部の前身として仮託されたものであろうとされています。
     六部は慶州盆地に居住した六つの地縁集団であり、同時にそれは新羅王京人の政治的社会的組織であったとされ、その起源は5世紀にまで遡るとみてよく、7世紀中頃を境に組織としての特質を弱めるなどその性格を大きく変化させながらも、六部は少なくとも10世紀前半の新羅滅亡まで存続したとされます。
     ところで、中国には「波」という姓があり、中国の百度が提供しているオンライン百科事典である「百度百科」によれば波姓の中には、波吏という漢代の水利土木施設官の官史名を姓の起源とする者がいたとされます。
  4. 『古事記』仁徳期の土木工事
     秦人(はだひと)がかかわっている土木工事として、『古事記』仁徳期には、茨田堤・茨田三宅・丸邇池・依網池の構築、難波堀江・小椅江の開削や墨江津の築港が紹介されています。  
     これらの大規模な土木工事は何代かの天皇にわたって行われたものを仁徳天皇の時代としてまとめて記したのでしょうが、秦氏の土木技術が生かされた工事という伝承が残っていた結果だと思われます。
  5. 京都・桂川の葛野大堰と愛知用水
     平安中期の『政事要略』に引用された「秦氏本系帳」には秦氏が葛野川(桂川)に大堰を築造したことを明記しているが、この大規模な灌漑施設によって京都盆地は次第に農地化されていったとされます。
     また、秦河勝の末裔を称する駿河・久野氏の系譜を引くとみられる愛知県知多市の久野庄太郎氏は、水不足に悩む愛知県知多半島地域への愛知用水を計画し、その実現に活躍されました。
     このような灌漑施設の建設は、中国の古代・波氏の特性を日本列島においても遺憾なく発揮したものとみるべきかもしれません。
  6. 名前の名字化
     江戸幕府編纂の『寛政重修諸家譜』には川勝氏が掲載されており、この名字は秦河勝の名前を借用したものとみられます。
     また、駿河の久野氏は平安時代末期に先祖の秦久能の名前を借用して久能氏を称し、後に久野氏を名乗っています。
     従って、このような例や金山加利村の村長の人名として祇沱(ぎだ)があることからも、秦氏は新羅の六部の一つである波旦部の統率者であった波陀(はだ)の名前を称する人物の末裔であるとの伝承を有していたので、その名前が名字化して秦や波多のウジを名乗ったと考えることが可能です。
  7. 波多臣氏
     武内宿禰後裔氏族のひとつで大和国高市郡波多郷を本貫とする波多臣氏は羽田・八多・八太とも書き、氏族としての初出は推古31年(623年)是歳条に新羅に派遣された副将軍のなかに波多臣広庭の名がみえます。
     また、天武13年(684年)には波多臣氏は朝臣姓を賜っていますが、そもそも武内宿禰は伝説上の人物であり、『新撰姓氏録』左京諸蕃上の太秦公宿禰の条には仁徳朝に波多姓を賜うという記事がありますので、波多臣氏は秦氏と同族であり、波多氏(後の秦氏)が葛城氏滅亡後に山背の深草や葛野などの地に強制移住させられた6世紀以降も大和に残っていたのが波多臣氏の可能性があります。
     大同3 年(808年)に平城天皇に上奏された伝承薬と処方の撰集である『大同類聚方』には志路木薬なる薬が掲載されており、その解説には「新羅國鎮明之伝方 大和國高市郡波多神社所伝之方 元衣通日女命乃牟土加是乎病美給不時用為給日天愈多流薬咽腫礼痛美弖於茂能通良受保天里於楚解安流者二用羽倍之」とあるので、これは波多臣氏が新羅出身者であることの傍証となり得るのかもしれません。
     『日本書紀』の持統天皇三年六月一日条では⽻⽥朝⾂齊(牟後閉)が撰善⾔司(教訓集を編纂する官司)に任じられていることからも、波多は羽田とも表記されていたようです。
  8. 波氏は辰韓人か
     『魏志』辰韓伝によれば辰韓とは、秦の時代に労役を避けて馬韓に来た人々に馬韓が東部の地域を割いて与えた国であり、言葉は秦人に似ているところがあって、辰韓を秦韓という人もいる。辰韓ははじめ六国であったが、後しだいに分かれて十二国になった、と紹介されています。
     この辰韓伝の記述を参考にして秦氏の秦始皇帝の後裔説が出来上がった可能性がありますが、上述のように波姓は漢代に出来たウジなので秦始皇帝とは関係ありません。
     むしろ、『三国史記』新羅本紀の第十七代奈勿尼師今十八年(373年)条に百済の禿山(とくざん)城主(禿山は現在の京畿道烏山市)が三百人を率いて来降し、王は彼らを迎え入れて六部に分けて住まわせたとの記事があるので、この百済人の中に波氏がいた可能性があります。
  9. 関連年表
     4世紀から5世紀初頭の朝鮮半島や秦氏に関連する記事を年表にしてみました。
     この年表などから想像をたくましくすれば、秦氏の祖は帯方郡滅亡後もソウル近郊に居住していたが、高句麗の南下に伴い新羅に逃げ込んではみたものの当時の新羅は辰韓から分かれた小国であり、土木技術を使った活躍場所も限られていたため、ヤマト王権の誘いに応じて渡来してきたものと考えられます。
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  1. おわりに
     新羅の政治的社会的組織であった波旦部の波は中国起源の姓であり、中国から百済経由で新羅に移住し、その統率者の中に波陀(はだ)の名前を称する人物がいた可能性が大であり、その末裔が日本列島に渡来したと思われ、
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と一連の名乗りが変化していったものと推測されます。
 秦を名乗った時期はヤマト王権側が6世紀に入ってから地方の渡来系の氏族を秦部(秦人部などを含む)の部民に再編成し、その伴造に就任してからではないかと思われます。
 そして、ウジが秦になってから後付けで秦始皇帝の後裔を称し、禹豆麻佐(うずまさ)が太秦に変更されたのではないでしょうか。

 また、『日本書紀』の推古天皇十八年十月条では秦造河勝・土部連莵が新羅の導者になったと記しているので、これは秦氏が新羅出身者であったことと無関係ではないように思われます。

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