邪馬台国大和説(2)

 3.5 『魏志倭人伝』以外の中国史書の内容
 (1)『魏略』
    『魏略』は『魏志倭人伝』に先行して265年頃に成立したとされ、その
   逸文が『翰苑』に収められていますが、その内容は識者の訂正内容を踏ま
   えると次の通りです。

    「魏略曰従帯方至倭循海岸水行(中略)至伊都国戸万余置官曰爾支副曰
     洩渓觚柄渠觚其国王皆属女王也」
    「魏略曰女王之南又有狗奴国(中略)自帯方至女国万二千里・・」
    ここで注目すべきは伊都国から女国までの行程や邪馬台国の記述がない
   ことです。
 (2)『広志』
    『広志』は『魏志倭人伝』に先行して266~280年代に成立したとさ
   れ、その逸文が『翰苑』に収められていますが、『翰苑』自体は660年に
   完成し、撰者の見出しの内容は識者の訂正内容を( )内に併記すると次の
   通りです。
    「邪届(馬)伊都傍連斯馬」
    これは、「邪馬国は伊都国の傍らにあり、斯馬国に連なる。」と読め、
   伊都国と斯馬国を合わせたものが現在の糸島の地名になったと考えられま
   すので、伊都国のすぐ近くに邪馬国があったとしているのでしょう。
    一方、見出しに続いて『広志』の逸文は、識者の訂正内容を踏まえると
   次の通りです。
    「広志曰倭国東南陸行五百里到伊都国又南至邪馬嘉国自女国以北其戸
     数道里可得略載次斯馬国・・」
    ここで注目すべきは伊都国の南に邪馬嘉国があり、邪馬嘉国=女国です
   が、ここでも伊都国から女国までの行程や邪馬台国の記述はありません。
 (3)『隋書倭国伝』
    『隋書倭国伝』は7世紀に成立し、そこには「都於邪靡堆、則魏志所謂
   邪馬臺者也」と書かれており、邪靡堆の靡は講談社学術文庫の『倭人伝』
   によれば誤写であり、正しくは邪摩堆(ヤマト)のことですから、この
   記述は7世紀の都がヤマト(大和)にあったとしており、このヤマトが
   『魏志』でいう所の邪馬台と明言していることから、中国の知識人の認識
   は大和に邪馬台国があったということです。
 (4)『太平御覧』
    『太平御覧』は983年に完成されたとし、『魏志倭人伝』の現存する
   最古の版本が紹興年間(1131年~1162年)に印刻された百衲本ですので、
   それより148年以上前に完成した『太平御覧』が収める『魏志倭人伝』は
   貴重なものであると考えますが、その内容は次の通りです。
    「末盧国・・・東南陸行五百里到伊都国・・又東南至奴国百里・・又東
     行百里至不弥国・・又南水行二十日至於投馬国・・又南水行十日陸行
     一月至邪馬台国」
    「自帯方至女国万二千余里・・」

    ここでようやく邪馬台国が登場しましたが、方位は見直しされていない
   ものの連続式の読みを規定しており、解釈が分かれることはありませんの
   で、邪馬台国はすなわち大和にあったと考えるのが妥当です。
    また、帯方郡から女国までが万二千余里となっているのは『魏略』と同
   じであり、邪馬台国までではないことに注意が必要ですが、この里数は
   3.2項で論じた如くあくまで中華思想に基づく概念的な数値です。

    そもそも水行十日陸行一月を帯方郡から邪馬台国までの「総日程」と見
   なす論者もいますが、もしそう読むのであれば原文は水行十日の前に「自
   帯方郡至邪馬台国」と書かれるはずであり、従って倭人伝から総日程と読
   むのは恣意的ですし、上記の『太平御覧』の記述からそうした読み方は完
   全に否定されます。
    加えて、陸行一月の大部分を朝鮮半島の縦断に費やしたとする考え方に
   対しては、朝鮮半島では近代になるまで道路や橋の整備がされておらず、
   河川や海岸沿いを使った船での往来が一般的であったとの反論や、魏使は
   船で帯方郡を出発しており、途中で船を捨てて道も無く危険な朝鮮半島内
   部をわざわざジグザグに通った理由が分からないし、下賜品等の多くの荷
   物を持った一向が半島内でどうやって運んだり大小の河川を越えたか疑問
   とする反論が出されており、朝鮮半島縦断説には説得力がありません。

    また『太平御覧』では投馬国に対応する国名が於投馬国となっていま
   す。
    「於」を接頭辞とする意見と、『日本上代史管見』(末松保和、昭和38
   年)では出雲の名の起源はアイヌ語の「エトモ」(入江を抱いた岬)とす
   る意見があるとされ、笠井新也氏の「邪馬台国は大和である(一)」では
   投馬国の投は音が「ヅ」であって、投馬は「ヅマ」であり、しかも出雲す
   なわち「イヅモ」の「イ」は母音の発語で音が軽いから自然に省かれたも
   ので、「マ」と「モ」は同行音で相通ずるものとすれば、出雲・投馬の両
   地名はまったく一致するとしており、末松保和氏も笠井氏の投馬国=出雲
   に同意されています。
    投馬国=出雲説でやや疑問なのは『和名類聚抄』に掲載の出雲の郷数が
   78と奴国の筑前の102と比べて少ないのに、戸数が5万で奴国の2万より
   多いことですが、当時、吉備も出雲の傘下にあったのであれば納得できる
   規模だと考えます。
 (5)まとめ
    以上の中国の4書から言えることは、当初、帯方郡使は目的地として伊
   都国や伊都国のすぐ南の卑弥呼が居る女国に行ったことがあるだけだった
   ので、倭人伝の倭国の風習などの記述は伊都国までの見聞録だったと思わ
   れます。
    のちに奴国や不弥国まで足を運び、おおよその里数や戸数、官名を把握
   したが、それ以外については特に興味を持たなかったので倭人伝には反映
   しなかった。
    その後、里数を知らない倭人から投馬国や邪馬台国までの日数や戸数、
   官名を聞いたので、奴国や不弥国の情報と合わせて倭人伝に盛り込んだ
   が、この時、女国の別名が邪馬嘉国だったのを邪馬台国と勘違いしてしま
   い、最終的に女国=邪馬台国とみなして記述してしまった、というのが
   実情ではないかと考えます。

4.おわりに
 今まで『魏志倭人伝』は原文改訂をして読んではいけないとの主張や、里数
の辻褄合わせに苦心した論評が多くありましたが、そもそも倭人伝は倭国に
関する調査・研究論文ではありませんし、原本も残っていない政治的意図を持
った見聞録風の内容ですので史料批判は欠かせませんし、その結果として原文
改訂が必要であればどんどん改訂していけばよい話です。
 また、現代の日本人同士が独自の解釈に基づき意見を戦わせるよりは、『魏
志倭人伝』以外の中国史書にどう書いてあり、倭国に対する中国の知識人の理解
が時代と共にどう変遷していったのかを検討した方が解明するにはよほど早道で
あると常々思っていたところですが、昨今、北九州沿岸の女王国(ヤマト国)と
大和の邪馬台国とを区別して考えるべきであろうとの意見の『邪馬台国再考』
(小林敏男著、ちくま新書)に接し意を強くしているところです。

 結論としては、卑弥呼が居た場所は伊都国のすぐ南ということになりますの
で、耳かざりやメノウ製管玉などの装身具が副葬品として見つかった福岡県糸島
市の平原遺跡1号墓が卑弥呼の古墳ではないかと考えます。
 また、邪馬台国が大和にあったとする意見に異論をさし挟む余地はないものと
考えています。


   


    

    

   

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA