四天王寺と難波津、及び前期難波宮

1. はじめに
 5 世紀に難波地域の開発が始まり、上町台地やその周辺にはさまざまな施設や倉庫群、手工業の工房などがおかれ、都市的な様相をもちつつ難波遷都へとつながっていくと考えられており、難波津はこうした難波地域の繁栄を外交や流通の拠点として支えたものと思われ、四天王寺も地域の信仰を集めたものと想像されます。

 本稿では加藤謙吉氏の『日本古代の豪族と渡来人』(雄山閣、2018年)や佐藤隆氏の「古代難波地域における開発の諸様相-難波津および難波京の再検討-」(『大阪歴史博物館研究紀要 第17号』2019年に所収)、栄原永遠男氏の「難波屯倉と古代王権—難波長柄豊碕宮の前夜—」(『大阪歴史博物館研究紀要 第15号』2017年に所収)などを参考にしてその歴史を概観してみたいと思います。

2. 四天王寺の創建の経緯と創建者
 四天王寺は 7 世紀に創建されて以来、現在に至るまで法灯を伝えるわが国を代表する古代寺院です。
 8 世紀の後期難波京における整備の中心となった地域のひとつである四天王寺周辺には、四天王寺の軒丸瓦のひとつが堂ヶ芝廃寺(摂津百済寺)の創建瓦や、舒明天皇の命によって造営された飛鳥の吉備池廃寺(百済大寺)と同笵であることなどから、四天王寺や堂ヶ芝廃寺の造営が斉明天皇の菩提を弔い、国の守護と百済復興を願ったものとの意見があります。
 また、『日本書紀』の崇峻即位前紀の四天王寺創立の縁起譚は後世の造作にもとづく虚構であり、推古天皇元年条の難波の荒陵に四天王寺(の前身のお寺)を造り始めたとの記事がもっともらしく、丁未の役(守屋合戦)とは無関係であり、厩戸王の発願とするのは無理があるとされています。
 加藤氏によれば、推古天皇三十一年条に新羅使らが献上した舎利、金塔らを葛野の蜂岡寺や四天王寺に納めたとする記事は、新羅王がヤマト王権の圧力により友好関係の証として仏像や仏具を贈呈し、厩戸王の追善という名のもとに葛野の広隆寺や四天王寺に納入されたにすぎないとしており、結局、四天王寺と広隆寺は同じ頃、同じような経緯で創建されたと理解されています。
 そして、四天王寺の発掘調査結果より、塔、金堂、中門、南大門などは飛鳥時代に造営されたが、回廊と講堂が実際に建造されたのは7世紀後半の白鳳時代であるとされます。
 要するに、四天王寺の造営は推古三十年頃に開始され、7世紀半ばになっても未完の状態にあり、乙巳の変後の難波遷都を契機に、これまでとは異なる形で造営が継続されたと加藤氏は推測しているわけです。
 また、荒陵寺が四天王寺という寺号に変更されるのは、小四天王像や大四天王像が安置された孝徳朝から天智朝にかけての頃とされ、鎮護国家的な思想のもと、東アジア諸国と直接相対峙する国際港難波津所在の寺院に四天王像が安置され、国の守りとされた蓋然性は高いとしており、卓見ではないでしょうか。
 従って、大化期以降の四天王寺は私寺ではなく官寺的要素の強い寺院と位置づけることができるが、それ以前はどうだったのでしょうか。
 田村圓澄氏は難波吉士氏が本拠の難波に氏寺(荒陵寺)を持った可能性が大きいとし、厩戸王の追善をかねて氏寺の造営を始めたのだとしています。
 6世紀後半に吉士系諸氏を結集してつくられた難波吉士の氏族組織は伽耶系の渡来人より成り、紀臣・坂本臣・大伴連など対朝鮮外交や軍事行動に従事したヤマト王権の有力豪族のもとに所属し渉外実務を担当したが、伽耶諸国滅亡後の6世紀後半にその主要な勢力は王権の手によって難波吉士という擬制的な同族団に編成されたものと考えられています。

3. 難波津 
 1987年から始まった旧大阪市中央体育館敷地における発掘調査で見つかった16棟からなる5世紀代の法円坂倉庫群は設計・施工においてそれまで我が国にはない革新的な技術が用いられ、規模も当時の頂点に位置づけられ、難波屯倉を構成するものとみられています。
 難波津は難波屯倉や難波館などの名前が史料に見られる6世紀代には既に外国の使節を迎える港として機能しており、松尾信裕氏は古代の難波津が東横堀川北端部の東西に広がる低地部分に埋没している旧大川岸にあったと推定しています。
 異論はあるものの、物流の拠点である法円坂倉庫群の近くに難波津があったとするのは妥当な結論ではないでしょうか。

4. 前期難波宮(難波長柄豊碕宮)
 前期難波宮が完成したのは652年で、孝徳即位の7年後であり、それまで孝徳天皇と新政府メンバーは大郡宮(元は外交用施設)や小郡宮(元は内政用施設)などに住んで難波長柄豊碕宮のプランを実地に検討していたのであろうと考えられています。
 それらの前身は難波屯倉で、諸施設の機能、設備は充実しつつ分化し、大郡、小郡、難波館などと称されるようになり、難波屯倉から分立したとされます。
 難波屯倉の成立は6世紀前半とされ、難波長柄豊碕宮前夜の段階の難波屯倉は、上町台地先端部やその周辺地域の統治の機能、倉庫の収納および管理機能を中心に存続していたと考えられます。
 また一部には前期難波宮は孝徳天皇の宮ではないとの意見もあるようですが、次のような孝徳朝の立評(建郡)記事があることからも、そのような考えは否定されそうです。
(1) 常陸国風土記・行方郡建郡記事
   古老曰、難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世、癸丑年(653年)、茨城国造、
   小乙下壬生連麿・那珂国造、大建壬生直夫子等、請惣領高向大夫
   中臣幡織田大夫等、割茨城地八里那珂地七里合七百余戸
   別置郡家
(2) 因幡国伊福部臣氏古志(系図)
   第二十六 大乙上都牟自臣
   是大乙上都牟自臣難波長柄豊前宮御宇天萬豊日天皇二年丙午(646年)、
   立水依評任督授小智冠
   
 加えて、『続日本紀』和銅元年八月八日条によれば、高向国忍(皇極紀では高向臣国押と称す)は難波朝廷の刑部尚書で、大花上の位(大宝令の正四位に相当)であったと記されているので、前期難波宮の孝徳を支える重臣だったのでしょう。

5. 第三次遣唐使の派遣
 『日本書紀』白雉5年(654年)2月条では4項の高向国忍と同族の高向史玄理らが唐に派遣された時に唐側から日本国の地理や国の初めの神名を聞かれ、その問いに対して全て答えたとされます。
 『新唐書』日本伝の記事には、天御中主~神武~応神~海(敏)達~用明((阿脱?)目多利思比孤)~皇極までの天皇名などが記されている部分があるため、この初期段階の情報(天皇の漢風諡号が制定される以前の称号)が上記の書紀に書かれている問いに対する答えの一部であったことが分かります。
 この問答の背景として考えられることは、以前に倭国側が国号を日本に変更することを伝えたが、唐側は国号を変更するということは王朝が変わったことを意味すると理解してその証拠の提示を求めたが、王朝が変化していないことを上手に答えられなかったので宿題になっていたということでしょう。
 孝徳天皇が史(ふひと)のカバネを有する唐の制度に精通した政治顧問の国博士である高向史玄理を唐に派遣したということは、倭国に対する理解を深めて貰うための強い意志を込めた人選だったと思われます。
 なお、高向(漢人)玄理は608年に小野妹子に同行して隋に渡った経験があります。

6.おわりに
 応神天皇の大隅宮や仁徳天皇の高津宮が上町台地にあったとされるので、その延長として雄略天皇の時代から難波津は本格的に運用されたものと思われますが、それと前後して難波地域の開発が始まり難波遷都へとつながっていったものと推察されます。
 『日本書紀』推古三十二年条には寺の数が46、僧が816人、尼が569人とあり、寺の多くが河内にあり、これらの全てが飛鳥寺を頂点とするヒエラルキーの中に位置付けられ、相当な経済基盤が河内には存在していたこと、また全国に国造が任命され、各地に屯倉が設置されているというような社会状況下から一歩前進して列島の王権の権力集中を目指したのが孝徳朝の大化改新であったのでしょう。

 なお、四天王寺や前期難波宮のような大型建造物は一朝一夕には築けないものであり、その前身を含めて完成までに長い年月を要したのは確実です。

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