古代豪族・中臣氏のルーツを探る

1.はじめに
 中臣氏は藤原鎌足や有力公家、有力神社の祠官家を多数輩出したことで有名ですが、中臣氏の祖である天児屋命の職掌は骨ト(こつぼく)であったとされていますので、確たる史料は無いものの占いを切り口に中臣氏のルーツを探ってみたいと思います。

2. 中臣氏と占い
 中臣というウジは、宮廷祭祀機構の整備に伴い欽明朝頃に初めて中臣職が創設され、欽明朝に連のカバネを賜った中臣連鎌子が中臣氏の初見ではないかと思われます。
 中臣氏のウジの由来としては『藤氏家伝』上に、「世掌天地之祭、相和人神之間。仍命其氏曰大中臣。」とあり、また『群書類従』に所収の「中臣氏系図」の糠手子大連の箇所に、「高天原初而。皇神之御中。皇御孫之御中執持。伊賀志桙不レ傾。本末中良布留人。称二之中臣一者。」とあるので、皇神と皇御孫(天皇)の中を取り持ち、神意を伝えることであったと解釈されます。
 また、『古事記』の「天の石屋」の段に中臣氏の祖である天児屋命は鹿の肩甲骨を焼きそのひび割れによって占う骨トを専門にしていたとされ、『日本書紀』神代下第二の一書に天児屋命は神事の元締の役であり、太占(ふとまに、骨トのこと)の占いを役目として仕えさせたとあるので、中臣氏の主要な職掌としては占いにより天皇家の相談役を務めていたと解釈されます。
 『日本書紀』欽明天皇14年(553)6月の記事ではト書を百済から求めたという記述があるので、実際にはこの頃が日本古来の動物の骨による骨トから中国伝来の亀卜(きぼく)への転換点ではなかったかと思われます。

3. 松尾社家伊伎氏の系図
 『続群書類従』に所収の松尾大社の社家卜部伊伎氏の「松尾社家系図」によれば雷大臣命は、中臣、大中臣、卜部、伊伎、藤原等の初祖也とされ、仲哀天皇の時代に亀トの業をもって中臣から卜部(うらべ)に改姓したとされますが、実際には古墳時代後期から亀卜が国家の祭祀となり、卜部と呼ばれる品部(職業集団)が占いに従事していたのではないかと考えられています。
 『延喜式』などによれば、卜部は対馬・ 壱岐・伊豆の三国から選ばれることになっており、また対馬から10人、壱岐・伊豆から各5人を選ぶことが規定されています。
これを三国卜部と呼び、また中央に進出した京卜部も含めると厳密には四国卜部とも呼ばれます。
 また、この系図では神功皇后の時代に中臣烏賊津連は雷大臣を称し、大三輪大友主君、物部胆咋連、大伴武以連を含む四大夫の中の随一であったとしていますが、この内容は仲哀紀のコピーであり、時代的にも信用できません。
 さて、書紀の神功皇后摂政前期に出てくる中臣烏賊津使主については、対馬市厳原町豆酘の雷神社は新羅征討からの帰還後に雷大臣命(中臣烏賊津使主)が邸宅を構えた場所であり、雷大臣命はそこで朝鮮からの入貢を掌り、祝官として祭祀の礼や亀卜の術を伝えたという話が残っており、対馬市には中臣烏賊津使主を祭る神社が多数あることからも、中臣氏がこの地方に縁があったことがうかがえますが、系図や神社の言い伝えは亀トの術であり、記紀の骨トではありません。
 従って、記紀の骨トの記述は中臣氏の歴史が古いことを強調するためのものであり、とても史実とは思えませんし、中国伝来の亀卜が家業であったとするならば、畿内出身の氏族ではなくて渡来系氏族の可能性は否定出来ません。

 また壱岐市には月読神社があり、現在、松尾大社の摂社となっている京都市西京区松室山添町の月読神社は壱岐県主・押見宿祢が神職として奉仕し、押見宿祢の子孫の卜部姓が代々神職として世襲したとされますから、社家卜部伊伎氏は伊岐国造の一族とみられます。
 天武紀2年12月5日条には大嘗祭に奉仕した中臣、忌部、および神官の人たちと記されているので、この神官が卜部に相当するのでしょう。

 以上のような事情もあり、記紀(『日本書紀』では別伝の扱い)の神話では瓊瓊杵尊は中臣氏の遠祖、天児屋命ら五部(五伴緒)を随伴して天下ったという設定であり、また『古事記』では伊邪那伎命の三柱の貴き子として天照大御神、月読命、須佐之男命が挙げられているので、中臣氏や藤原氏が神話の創作に関与した形跡がうかがえます。
 ただ、藤原氏の権力や天皇家の権威を持ってしても『日本書紀』の天孫降臨の段の本文には天児屋命や天照大神が掲載されておらず、また高皇産霊尊が天孫降臨の指揮者であり、書紀の神代下の冒頭には高皇産霊尊が皇祖として登場するので、天照大神は比較的新しい神であった事が分かります。

4. 中臣氏系図と日本書紀の人々
 『群書類従』に所収の「中臣氏系図」では、黒田大連公に2男があり、欽明朝に中臣姓の始めとして中臣常盤大連と中臣伊礼波連を挙げ、常盤大連の子には敏達朝の中臣可多能祐大連を挙げていますが、いずれも書紀には出てきません。
 そして可多能祐の3男が御食子、国子、糠手子となっています。
 『尊卑分脈』の藤原氏系図もほぼ中臣氏系図と同様であり、黒田大連の箇所に「継体天皇御宇人也」と注記されています。
 さて、『日本書紀』の中臣氏関連の人物で欽明紀から用明紀に出てくる鎌子、勝海、磐余は、「中臣氏系図」や『尊卑分脈』の系統とは別人の本流とみられ、丁未の役で本流は滅亡したものと思われます。
 応神9年条の壱岐直の先祖の真根子ですが、〇〇子が中臣氏の一時期の通称であり、真根子の実在性については疑いようがないと思いますが、その時期については何とも言えません。
 また、書紀の神功皇后摂政前期9年条には中臣烏賊津使主をよんで審神者(神託を聞いて意味を解く人)とされたとの記事がありますが、当時中臣姓が成立していなかったので、中臣祖の烏賊津使主とでも呼ぶべき人物のようですが、この使主とは何を意味するのでしょうか。
 応神朝の「倭漢直の祖阿智使主、其の子都加使主、並に己が党類十七県を率て、来帰り」とあるのが使主の2番目の例であり、いわゆる東漢氏の渡来時の族長に冠せられた敬称とみられ、この使主の敬称は渡来系の祖名に付されることが多いとされ、『新撰姓氏録』の渡来系氏族で先祖名に使主が付くのは、桑原村主、調連、民首、高田首、日置造、伊部造、末使主、木曰佐、桑原直、朝妻造、波多造、鳥井宿禰、栄井宿禰、吉井宿禰、和造、日置倉人、桑原史、火撫直、水海連、調曰佐、上曰佐、島本、村主、日根造の各氏です。
 従って、神功紀や允恭紀に見える烏賊津使主と、仲哀紀に見える烏賊津連は同一の人物とみられることから、どの時代に生きた人物かは特定できないものの中臣氏の伝説的な先祖に設定されたものと思われ、烏賊津使主は中国伝来の亀卜に通じた朝鮮半島からの渡来人であった可能性が高いものと判断されます。

5. 中臣氏の本貫地
 大阪府北部の三島地域は古代から藤原氏ゆかりの地とされ、大阪府茨木市東奈
良一丁目・二丁目の東奈良遺跡付近は沢良宜(さわらぎ)と呼ばれ、鎌足が隠居した三島別業という別邸があったとされます。
 また、大阪府高槻市奈佐原・茨木市安威にある阿武山(標高281.1メートル)の山腹に位置する阿武山古墳は被葬者を藤原鎌足(中臣鎌足)に比定する説があります。
 従って、中臣氏の先祖である黒田大連が継体天皇の時代の人であるとされており、継体天皇も今城塚古墳のある三島が出身地であると思われるので、黒田大連が継体擁立に参加してからが王権との本格的なつながりの第一歩であったのかもしれません。
 なお、淀川流域の枚方市には津嶋や津嶋野の伝承地があり、寝屋川市には対馬江の地名が残っていることから、中臣氏や卜部氏が九州の対馬に往来していた事実を物語っている可能性があります。

6. おわりに
 中臣氏の先祖は日本古来の骨トとは無関係であり、中国伝来の亀トを王権に持
ち込むことに成功した朝鮮半島からの渡来人であったと考えられます。
 大化改新の功労者である中臣鎌足の偉大さもさることながら、亀トを以って王権に最接近した先祖の存在を抜きには藤原氏の隆盛を語ることは出来ないと思われます。

「古代豪族・中臣氏のルーツを探る」への1件のフィードバック

  1. 群書従類他、論考の元となる出典が多数明記されていて大変助かります。ありがとうございます。
    氏姓としての中臣氏の成り立ちが欽明朝頃と解り、参考になりました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA