邪馬台国大和説(1)

1.はじめに
 邪馬台国関連では既に「邪馬臺(台)国の場所」の項で言及してきましたが、
今回は論点を整理し、大和説が妥当かを探ってみたいと思います。

2.論点整理
 今までの邪馬台国論争で何が論点だったのかを私なりに整理してみますと、つぎのようなことが考えられます。
 この論点について、つぎの項以降で検討します。
(1)行程の方位を正確に把握していたのか
(2)1万2千里は実数だったのか
(3)中国の度量衡はどうだったのか
(4)戸数と経済の中心地との関係はどうだったのか
(5)『魏志倭人伝』以外の中国史書の内容はどうだったのか

3.論点の検討
 3.1 行程の方位
  『魏志倭人伝』によれば倭地は会稽東治(浙江省)の東方に位置し、不弥国
 から南へ船で20日で投馬国へ、さらに南へ船で10日、歩いて1月で邪馬台国に
 至るとあることから、列島は南北方向に長いと理解していたであろうことは
 容易に想像されます。
  その原因として、太陽が昇る場所が夏至と冬至では約60度違うので、夏至の
 頃に末盧国(唐津)に上陸したら太陽は糸島半島から昇ってきますので、伊都
 国(糸島市三雲)を東南の方向と判断した可能性が考えられます。
 
  この事に同調するかのように、笠井新也氏の「邪馬台国は大和である
 (一)」『考古学雑誌』第12巻第7号(大正11年発行)によれば、末盧国着陸
 後の魏志の方位は、伊都国を経て奴国に至るまで、いつも東北をもって東南と
 記しているので、魏志の東は正に北を指すものであり、南は正に東を指すもの
 と見なければならないと論じています。
  続けて笠井氏は、奴国より「東行不弥国ニ至ル」とあるので、不弥国は儺
 県、すなわち今日の博多より北方にこれを求めねばならないので、距離百里か
 らこれを求めると、不弥国より投馬国は水行なのでその位置は水路の出発点で
 あることを考慮して津屋崎(福岡県福津市)付近と推定するとし、不弥国より
 「南、投馬国ニ至ル」とあるので、この南の字もまた実際において東と解釈し
 なければならないとしています。
  津屋崎近くには7世紀築造の宮地嶽古墳を含む古墳群があり、3世紀の時点で
 もそれなりの集落があったことが想定されますので、笠井氏の主張は的を得て
 います。
  従って、現在の地図からそのまま倭人伝の方位で行程を検討することは大き
 な間違いを犯すことになります。

 3.2  1万2千里は実数か
  『魏志倭人伝』では帯方郡(今のソウル付近)から邪馬台国までの距離を
 1万2千里としているが、これは測定値なのか、または一部の測定値に推測
 値を合わせたものなのか、それとも中華思想に基づく概念的な数値なのかが
 問題となります。
  測定値とすれば、垂直に立てた棒の影の長さから計算が可能かもしれませ
 んが、この場合はあくまで2点間の直線距離であり、行程上の実距離とする
 には無理があります。
  また、帯方郡から末盧国までは船による航行が多用されていたと思われ、
 歩行より実測するのはさらに難易度が高く、推定値と組み合わせる方法も
 容易ではありません。
  ところで、東 潮氏の「『三国志』東夷伝の文化環境」(『国立歴史博
 物館研究報告』第151集、2009年)によれば、倭人伝は、洛陽-楽浪の五
 千里は『尚書』禹貢の五服説,帯方郡から邪馬台国までの万二千里は『周礼』
 の九服説によるとされ、京師からの地理観を郡治からの距離観におきかえる
 小天下観に基づき記述されており、洛陽から楽浪郡まで「五千里」、帯方郡
 から狗耶韓国まで「七千里」、倭の邪馬台国まで「周旋五千里」とし、帯方
 郡から弁韓の狗耶韓国までの「七千里」は大行人九州の方七千里,倭の邪馬
 台国までの「萬二千里」は、七千里に『尚書』禹貢の方五千里、すなわち
 「周旋五千里」を合わせた数と考えられるとしています。

  また、中国の昊炁文苑氏の畿服の解説 でも、中国国家は方六千里で一面3
 千里(東西、南北それぞれ3千里の正方形)であり、天下は方万里で一面5
 千里(東西、南北それぞれ5千里の正方形)の概念が示されており、松本清
 張氏はその著書『邪馬台国』(講談社文庫、1986年)で『漢書』西域伝の
 長安から西域の国々の王城までの里数の記述を検討し、「万二千里」という
 のは中国の直接支配をうけていない国の王都がはるか絶遠のかなたにあるこ
 とをあらわす概念的な里数であるとしています。

  従って、帯方郡から邪馬台国までの距離一万二千里を実数とみなして現在
 の地図から里数のみで場所を特定しようとするのはナンセンスです。
  もちろん100里などの近距離はある程度予測し得たでしょうが、実数でな
 いのは明らかです。

 3.3  距離の度量衡
  中国の度量衡で度には尺・歩・里の単位があります。
  秦代から隋代までは、6尺=1歩、300歩=1里で、1尺の長さは魏の時代で
 は23.8cmでした。
  時代によって多少の振れ幅がありますが、魏代の1里は23.8cm×1800尺
 =428.4mとなります。
  この度量衡から言っても、魏の時代の一万二千里は約5,140kmとなり、
 倭の位置と記されている会稽東治の東を便宜上現在の浙江省紹興市会稽山
 香炉峰の東の屋久島南沖の海上とし、そこから帯方郡があったとされるソ
 ウルまでが直線距離で約890kmですので、一万二千里は実数ではないこと
 が分かりますし、一部の論者が主張している短里が存在していたので一万
 二千里などの里数は実数だとするのは度量衡を無視した解釈であり無意味
 と考えます。

 3.4 戸数と経済の中心地
  『魏志倭人伝』によれば奴国が2万戸、投馬国が5万戸、邪馬台国が7万戸
 を有するとあり、また『古墳とはなにか』松木武彦著、角川ソフィア文庫に
 よれば2世紀後半から3世紀にかけての3巨大集落としては畿内の纏向、吉備
 の津寺・加茂、筑紫の比恵・那珂があり、これらは伝統的な農村のレベルを
 超えた人口の集中、他地域の土器がしめす遠距離交易と人々の往来などたく
 さんの要素で共通しているとされます。
  このことから、戸数に誇張があるにせよ経済の中心地と戸数は対応してい
 ると考えるのが妥当です。
 
  さて、平安時代中期に作られた辞書である『和名類聚抄』に掲載の郷数は、
 畿内が349、吉備が252、筑前が102なので、比率は7:5:2です。
  この比率は、約700年の年代差があるとはいえ『魏志倭人伝』の戸数の比率
 と同じですので、畿内に邪馬台国が、吉備に投馬国が、筑前に奴国があった可
 能性が高そうです。
  奴国については、福岡県の那珂川や御笠川にはさまれた地域に比恵・那珂遺
 跡や須玖・岡本遺跡があり、仲哀紀に儺県(なのあがた)や宣化紀に那津(な
 のつ)官家の名称がみられることからも、この遺跡を中心とした筑前地方に比
 定されます。
  「奴」の中国語の発音は、藤堂明保編『学研漢和大字典』(学習研究社)に
 よると上古音 nag 、中古音 no(ndo)であり、北京大学出版社版『漢字古音手
 冊』では、上古音 na 、中古音 nuですから、倭人の「ナ」の発音に、中国人
 が「奴」の字を当てて『魏志』倭人伝に「奴国」と記入したものと思われま
 す。
  なお、神功紀に山門県で土蜘蛛の田油津媛を殺したとの記事があることに引
 きずられて筑後の山門に邪馬台国があったとする論者もいますが、九州の考古
 学者からは玄界灘をのぞむ福岡平野と糸島平野にそれぞれ最高ランクの人が君
 臨し、やや内陸部の周辺地域にそれに次ぐ人々が数人いて、さらにそれぞれの
 周囲やより外縁の地域に、それよりも下位の人々が散在することが以前から指
 摘されており、筑後地方に大きな経済圏があったとはとても信じられませんの
 で検討の対象外だと考えています。

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