伊勢・久野三直の出身地

 

 『三重県史』資料編近世1に、伊勢市神宮文庫所蔵の「太田重就申状(久野三
直宛)天正十六年九月十日」が収録されており、この久野三直とは伊勢・田丸城主の田丸直昌の家臣であったと思われ、伊勢大湊の太田新八重就が塩田の四至の境で争いが起き、自己の正当性を久野三直殿人々に宛てて訴えたものです。

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愛知県に久野氏が多い理由

 加木屋系図の南北朝時代と思われる箇所には、久野貞之が三河の牧野氏の養子となり牧野熊蔵を名乗ったとか、久野貴之が足助二郎の家臣になったことが書かれており、三河の諸氏と縁があったことが分かります。

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久野氏の祖・秦久能の足跡を推理する

 秦久能の手掛かりとなる記述は加木屋系図に残されています。
 加木屋本家系図では、「秦川勝ノ孫尊良末久能筑紫大嶋住亦珠流河国草薙山住久能山之城主也久能寺建観音有ハ妙音寺村也」とあり、加木屋分家系図では、「秦ノ川勝ノ公子尊良ノニ子久能秦欲遯乱東有地謂名島也経仁数方里筑紫来大島住亦珠流河国草薙山住久能山之城主也久能寺建勧音有妙音寺村也」と書かれ、分家系図では秦久能が筑紫に移ったのは東の地が乱れたことを理由にしているのが特徴です。

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出雲の久野氏

 出雲の久野氏がいつから久野姓を名乗ったのかは不明ですが、網野善彦著『日本中世史料学の課題』に京都府福知山市の桐村家が所蔵する大中臣氏略系図が紹介されていまして、常陸国新治郡を東、中、西に分割した時の中郡(茨城県桜川市)の郡司を勤めたのが藤原摂関家の流れをくむ上総介頼継としており、この子孫の中郡経元が承久の乱における戦功で出雲国久野郷の地頭職が与えられたとされており、中郡重経の子孫が出雲に下ったのではないかと考えられています。

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名古屋系図

 尾張藩久野家の系図では尾張藩久野家初代の吉章(吉政と書かれている資料が多い)まで記載されています。
 この系図には、紀州藩久野家初代の宗成や、岸和田藩久野家初代方明の父である宗茂も記され、このような系図となったのは、各家が情報交換をした結果だと考えられます。

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笠間市久野家の先祖

 笠間焼の祖である久野半右衛門(1701~1782年)は、笠間藩領茨城郡箱田村の名主の家に生まれ、実名を道延と称し、久野家の祖は駿河国今川氏の家臣であったが、のちに下野国宇都宮氏に仕え、主家没後は箱田村に土着したと伝えられており、安永年間(1772~1781年)、近江国信楽の陶工長右衛門に陶器製法を教授され試作したのち、屋敷内に登窯を築いて長右衛門とともに制作に努め、長右衛門が去ったあとには婿養子の瀬兵衛益信を信楽へ赴かせ陶工吉三郎を招き陶業に腐心したと『茨城県大百科事典』には紹介されています。

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熊本藩久野家の先祖

 熊本(細川)藩久野家については、「肥後細川藩拾遺」というHPを開設されている方から細川家に伝来する資料などを集めた永青文庫の「先祖附」という家臣団関係の資料を紹介頂き、その資料によれば家祖の久野次郎左衛門は尾張出身で、旧主は佐久間右衛門(信盛)であることが分かっています。

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藤原三郎通種とは誰か

 静岡県掛川市域の原田荘の円通院の住持であった松堂高盛(1431~1505年)が書いた『円通松堂禅師語録』の文明13年(1481年)の記事には「香心院主明智公者、遠州久野藤氏之家産也、天性好和歌、事江湖遊興、嚢中貯風月、筆下走龍蛇、寔是大雅余声、風流奇士也」とあることから、原野谷川流域の円通院に近い寺(香心院)に久野氏が住んでいたと思われます。

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