1.まえがき
『古事記』垂仁天皇段では、三宅連らの祖先にあたる田道間守が天皇の命を受けて常世国へ非時香菓を求めて旅に出たとの話を載せており、応神天皇段では新羅王の子である天之日矛が神宝8種を持参して渡来し但馬国にとどまり、その子孫に多遅摩毛理らがいたことを記しており、田道間守=多遅摩毛理です。
一方、『日本書紀』垂仁期にも同様な話が掲載されており、天日槍の渡来と田道間守の常世国への旅の話などの後に、田道間守が三宅連の祖先であるということで話を締めくくっています。
一連の話は三宅連氏の先祖伝承が記紀に採用されたものと一般には理解されていますが、果たしてそうなのか背景を探ってみたいと思います。
2.但馬地方の三宅連氏の痕跡
兵庫県朝来市山東町粟鹿に鎮座する粟鹿神社は「田道間国造日下部足尼家譜大綱」を所蔵しており、この家譜大綱では『古事記』に記載の開化天皇の後裔の大多牟坂王(多遅摩国造の先祖)を但馬国造として先祖に仰ぎ、大多牟坂王の妻を但遅麻毛理の女の但馬久流比売とし、生まれた娘を真穂若比売(三宅連祖忍立妻)としています。
そして日下部足尼家の初代を日下部表米(生没年:推古35年(627年)、和銅7年(714年)、天智期に養父郡大領、後に田道間国造)としています。
粟鹿神社の神官家が日下部氏なのでこの家譜では三宅氏に重きを置いていないとはいえ、この家譜以外に但馬地方での三宅氏の痕跡が発見出来ませんので、とても天日槍伝説と三宅連氏を結びつけることは出来ません。
3.但馬国造家の氏族
「田道間国造日下部足尼家譜大綱」には大多牟坂王の子に船穂足尼(但馬国造)を載せ、『国造本紀』但遅麻国造条にも船穂足尼とあることから、国造の名前は一致しています。
しかしながら、『国造本紀』吉備品治国造条には多遅麻君同祖若角城命三世孫大船足尼定との記述があるものの具体的な氏名を記さず、また『播磨国風土記』揖保郡越部里条には但馬君小津の名がみえ、但馬君小津が勾宮天皇(安閑天皇)の寵愛を受け、皇子代君の姓を賜り、播磨国の越部の地にミヤケを造って奉仕したことから皇子代村と呼ばれたといい、さらには『播磨国風土記』揖保郡揖保里条など多数の条に天日槍伝承を載せてもいますので、但馬国造家は但馬君氏であったことが窺われます。
また、大多牟坂王の子を但馬国造とするのは、地方豪族を国造に任命するという通説から言っても有り得ないのではないでしょうか。
4.天日槍伝説の成立状況
北條勝貴氏は、「松尾大社における市杵嶋姫命の鎮座について」(国立歴史民俗博物館研究報告 第72集 1997年3月所収)で「『日本書紀』のヒボコ伝承は、恐らくは8種の神宝を納める出石神社の所伝を中心として、各地に残るヒボコ関係の伝承を集成したもののように考えられる。すなわち、ヒボコが宇治川を遡って近江→若狭→但馬へと至る遍歴は、ヒボコ奉祀神社や伝承地-当然海人族の根拠地も多く重複してくるが-を連結することによって成立したのだろう。」としているのは重要な指摘であり、三宅連氏独自の伝承とするには無理がありそうです。
5.日本書紀などの日下部氏と三宅氏
『日本書紀』で日下部、草香部、草壁を名乗る氏は同一姓とみられるため、以下に三宅氏との関係を含め検討を加えます。
まず初めに目につくのは、『日本書紀』安康天皇元年2月1日条に、安康天皇の皇子の大草香は根使主の讒言により天皇の命令で家を取り囲まれ殺されたとの記事があり、その時に大草香皇子に仕えていたのが難波吉士日香蚊であり、雄略14年4月1日条にはその子孫に姓を与え大草香部吉士にしたとの話を載せています。
この話が美称の大を除いた草香(日下)部吉士の初見です。
『日本書紀』清寧天皇即位前期より『続日本紀』天平14年までの日下部氏と三宅氏の関連記事を拾い出したものを表にしてみました。

三宅氏も元のカバネは吉士で、吉士は朝鮮半島から渡来した氏族にヤマト王権側から与えられたもので、新羅の官位にも吉士があり、吉士は族長・首長を意味するとされています。
日下部氏も三宅氏も新羅との交渉に参加しており、両者共に天武12年に連のカバネを賜り、翌年には宿禰のカバネを与えられているのが共通項です。
大きな違いは三宅連石床のみが壬申の乱の功により、死後に冠位26階中7位の大錦上が与えられています。
また正倉院文書では難波の地に関係の深い氏族として天平宝字5年の郡の役人をみていくと、西成郡に擬少領・三宅忌寸広種が、東成郡に擬少領・日下部忌寸主守がいます。
一方、『日本書紀』大化2年(646年)正月是月条に、孝徳天皇が子代離宮(こしろのかりみや)に御したことに関連して「或本云、壊二難波狭屋部邑子代屯倉一、而起二行宮一」という原注があり、この狭屋部邑は西成郡にあったとされますので、『新撰姓氏録』摂津国皇別に三宅人がみえることから、この子代屯倉に関係するようになってから三宅人や三宅連(忌寸)も三宅を称するウジを名乗り、以後は三宅忌寸広種が西成郡擬少領に任命されたという流れが考えられます。
なお、三宅氏や日下部氏が難波屯倉にどの様に関与していたのかについては確たる史料もなく不明です。
6.まとめ
『新撰姓氏録』右京諸蕃の三宅連の項に、「新羅王子天日桙命之後也」としているのは記紀の記述と整合しているため史実ではないにせよ納得できるものですが、それ以上の記載は無く、とても三宅連氏が4世紀の先祖情報を所持していたとは思われません。
しかし、天智朝に日下部表米が但馬国養父郡の大領に任命され下向した時に天日槍伝説を聞き、それを同族の三宅氏に伝えた結果、記紀の加筆ネタを探していた三宅氏がその伝説から田道間守を祖先にすることに決定したのではないかと考えます。
すなわち、壬申の乱の功臣であった尾張氏が書紀への加筆が許されたことから、三宅氏の場合も壬申の乱の功臣であったので記紀に田道間守が三宅連の祖先であるとの加筆が史実ではないにせよ許されると考えたのでしょう。
また、記紀では三宅氏の祖先の田道間守を垂仁紀の時代の人物としているので、それならば「田道間国造日下部足尼家譜大綱」では三宅氏の本家筋の日下部氏の祖先はそれ以前の時代設定にしないと矛盾するので、開化天皇にしたのでしょう。
『続群書類従』には日下部表米を先祖とする「日下部系図・別本」が掲載されており、この系図の最後に越前の戦国大名・朝倉義景が出てきますので、本姓が三宅氏と思われる明智光秀が一時期、朝倉氏を頼ったのも古代の同族関係がベースにあったからなのでしょう。
そして日下部氏の家譜大綱に但遅麻毛理の娘の子を真穂若比売(三宅連祖忍立妻)としているのは、三宅氏の祖先が田道間守であるとの記紀の記述に根拠を与えるのが主目的ではないかと考えます。
なお、『続日本紀』によれば三宅臣藤麻呂が国史を選修したとあるので、この人選も加筆には好都合であったのかもしれません。