1.まえがき
記紀における有名氏族の息長氏についてはさまざまな先行研究がなされていますが、その中から『学習院史学26号』に所収の「継体王系と息長氏の伝承について」篠原幸久著と『日本古代国家成立期の政権構造』(倉本一宏著、吉川弘文館、1997年)などを参考にして思うところを述べてみたい。
カテゴリー: 古代史
法隆寺釈迦三尊像光背銘の不思議
1. はじめに
法隆寺金堂の釈迦三尊像光背の裏に記されている銘文の末尾には「使司馬鞍
首止利佛師造」となっており、一般には「司馬鞍首(しめのくらのおびと)止利
(とり)仏師をして造らしむ。」と読まれていますが、「司馬鞍」とは不思議
なウジ(氏)なので真相を探ってみたい。
中平銘大刀の来歴について
1.はじめに
4世紀後半の築造とされる奈良県天理市の東大寺山古墳から出土した国宝の長さ約110cmの鉄刀には、金象嵌で「中平▢年五月丙午造作文刀百練清剛上應星宿下辟不祥」の24文字(推定文字を含む)が入れられており、その意味は概ね、「中平▢年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。百練鉄の刀であるから、天上では神様のお役に立つであろうし、下界では禍ごとを避けることができる。」と解釈されています。
倭と日本は同時期に存在していたのか
1. はじめに
7世紀の倭と日本に関する中国の正史の記述は変化に富んでおり、倭と日本の2国が列島に同時期に存在していたのか否かについては諸説がありますが、その他の点を含めて中国側がどのように列島の歴史を理解していたのかについて推測してみたいと思います。
秦王国とは
1. はじめに
『隋書』俀国伝の大業四年(608年)に裴(世)清が竹斯国から東に向かい
秦王国に至ったという記事があり、この秦王国がどこにあったのか、または誤
伝なのかについては諸説があるので、主要な説を概観すると共に、以下に思う
ところを述べてみたい。
古代の宗像氏とその周辺
1.はじめに
福岡県にある宗像大社(以下、宗像社という。)の奥宮が玄界灘の沖ノ島にあり、この島から「海の正倉院」と呼ばれるほどの多彩で貴重な品々が発見され国宝に指定されていますが、4世紀後半に始まったとされるこの祭祀を神官の宗像(胸肩、胸形、宗形とも称する)氏が単独で行ったとするにはその目的と必要な財力からして疑問であり、宗像氏がヤマト王権の国家祭祀の一翼を担ったものとするのが通説です。
『宋書』倭国伝の司馬曹達について
1.まえがき
『宋書』倭国伝の元嘉二年(425年)条にある倭王讃の朝貢の使者の司馬
曹達について、任那日本府で現地採用された官職名が司馬を名乗る中国系の
人物であり、倭讃の使者として宋に上表文、そして曹達の発案・進言により
高句麗で得た方物を届けたとする意見もありますが、これには疑問な点があ
りますのでそれを記すと共に、別の解釈を提示してみたいと思います。
倭の五王に係る書紀の信ぴょう性について
1. はじめに
『日本書紀』には倭と宋との外交において宋は呉として書かれ、その交流は
(1)応神37~41年、(2)仁徳58年、(3)雄略6年、(4)雄略8~10年、
(5)雄略12~14年に記述されています。
一方、これに対応する宋の記事は『宋書』列伝や帝紀に記述されています。
ここでは特に『日本書紀』の記述の信ぴょう性について有益と思われる論考「大化前代の紀年Ⅱ」(『北海道教育大学紀要』32巻、2号に所収、栗原薫、1982年)を紹介すると共に、倭の五王の一部について思うところを述べてみたい。
邪馬臺(台)国の場所
1. まえがき
邪馬臺(台)国の場所については古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』では福岡平野にあったとするが、福岡平野に7万戸が存在したとするには面積的に狭いとの専門家の意見もあり、この問題を解決するためには邪馬台国が筑紫平野や佐賀平野にまで広がった領域とすればよいが、当時、そのような広域国家が成立していたのかは、『日本書紀』の景行天皇の九州巡行時の地名伝承などからも想像することは難しいので、つまりは、『魏志』倭人伝の内容そのものに問題があるのではないかと想像されます。
出雲国造家系図の信ぴょう性
1. はじめに
3世紀前後の時期の大型四隅突出型墳丘墓としては、島根県出雲市の西谷古
墳群の2号墓、3号墓、4号墓、9号墓が、また島根県安来市の塩津山墳墓群の
6、10号墓が知られ、弥生時代後期には出雲地方の東西に大きな政治勢力が
形成されていたものと考えられています。